十字架の木

50. まさしくこのようなわけで、イエズスは、(あの善悪の知識の)木に代えて(十字架の永遠の生命の)木を植え込まれ、そしてかつて不敬虔な仕方で伸ばされた(あのアダムの)邪な手に代えて<**>ご自身の汚れのないおん手を敬虔な仕方で釘付けになさることで、ご自分のうちにある全き生命を、(十字架に)かけられた全き生命を真実にお示しになられたのであります。ああ、イスラエルよ、あなたは食べることができなかった。しかし私たちは、不滅の霊的知識をもって食べました。そして食べても、私たちは死にません[1]

 

51. これは、私にとって永遠の救いをもたらす植物であります。そして私は、この(十字架の)木によって養われ、この(十字架の)木と共に祭りを祝います。 2 私はこの木の根によって根を下ろし、その枝と共に拡がり、その露によって浄められ、あたかも(そよ)風のもとで喜び踊るかのように、私はその霊によって豊かにされるのであります。 3 私は、その木の陰に幕屋を建てました。そして焼け付く暑さを避けて、露にぬれたほこらを得ます。 4 私は、(十字架の)木の数々の花と共に開花し、その幾多の実りを心行くまで楽しみ、元から私のために取っておかれた数々の実りをはばかることなく収穫いたします。 5 (十字架の)木は、私が空腹なときの糧、渇いているときの泉、そして裸にされたときの覆いでもあります。なぜならその木の葉とは、生命の霊であって、もはや私にとって無花果の葉ではないからです[2] 6 この(十字架の)木は、神を畏れる私にとっての避け所、よろめいたときの支え、競い合ったときの賞与、そして打ち勝ったときの戦利品であります。 7 この(十字架の)木は、私にとって、狭い小道、それは細い道であります[3] 8 この(十字架の)木は、ヤコブの梯子であり、天使たちの通路、そしてその梯子の頂には、主が本当に立っておられます[4] 9 この(十字架の)木は、天のように高くそびえ、地上から天へと伸びていきました。それは、天と地の間にご自分を固く据えた不死の植物、すべてのものの座、万物の基、全地の支柱、宇宙の十字路[5]――多種多様な人間的な本性をまとめ合わせ、霊による数々の不可視的な釘によってつなぎ止められた宇宙の十字路、神的なものと一つに結ばれて、もはや解き放つことができない宇宙の十字路なのであります[6] 10 (イエズスは)諸々の天の最高の高みに達せられて、大地を両のおん足をもって固く据えられ、また、とてつもなく大きな両のみ腕をもって、中空にあるあまたの霊を四方から包み囲まれました。こうして(イエズスは)すべてにおいて、そして至る所で、すべてのおん者となられたのであります[7]



[1] キリストの受難はアダムの業を償うという考えに促されて、初代教会の伝統は、受難と人祖の堕罪とを間に相関関係を見出そうとした。人間に死をもたらす善悪を知る木はキリストの十字架の木に対置され、更に後者は楽園の中に置かれた生命の木になぞらえられる。善悪を知る木の実を食べたアダムは、永遠の生命の木の実を食べることのないよう、楽園から放逐されたのに対し(Gn.3,22)、キリストの十字架の木は、聖体祭儀を通して我々を永遠の生命に与らせる。しかしこれに与るには、不滅の霊的知識すなわち洗礼が必要である。「不滅の」(avkata,lutoj)という語は、四世紀頃には、洗礼によって刻印される不滅の「印章」を形容する語として使われていた。Cf.Cyrille de Jér.,Procat.16(PG 23,360).

[2] Cf.Gn.3,7.

[3] Cf.Mt.7,14.

[4] Cf.Gn.28,13.

[5] su,mplegma kosmiko,n

[6] キリストの十字架を形作る木の一方は、「地上から天へと伸び」、他方は、「天と地の間に」とどまる。こうして十字架は、宇宙を支える二本の柱の交差となる。横木を止める「霊による不可視的な釘」は、キリストの受肉において神性()と人性()を結ぶ絆であった(本講話第47)

[7] すべてにおいてすべてとなる宇宙的キリストが聳え立っている。