黄泉への下降

56. ああ、あらゆるところ、あらゆるものの中に及ぶ神の延長[1]ああ、あらゆるものを貫いて引き伸ばされた十字架の刑おお、諸々の独り子の中の独り子[2]、真にすべてのものを貫いてすべてのものとなられたおん方よ諸々の天は、あなたさまの霊を受け容れるべきなのです。そしてあの楽園は(あなたさまの)魂を受け容れるべきであります。確かにこう言われております。「今日あなたは、私と共に楽園にいるだろう[3]」と。また、大地は(あなたさまの)身体を受け容れるべきであります。分かたれざるおん方は分かたれました[4]。すべてのものが救われるため、また、地の下の場所が神の到来を知らされないことのないようするために[5]。「私たちはそのお方のお姿を見たことがありません。しかしそのお方のみ声を聞きました」。



[1] h` qei,a e;ktasij

[2] リュバックが解釈するように十字架上のキリストの孤立無援が言及されているのではないように思われる。Cf. H.de Lubac, Catholicisme, 4e édit., Paris, 1947, p.323.

[3] Lc.23,43.

[4] Meme,ristai o` avmerh,j

[5] 天と地と中空に伸びる十字架上の受難によって、キリストは本当にすべてにおいてすべてとなる。そしてキリストは、唯一の分かちがたい独り子(独り子の中の独り子)であるにもかかわらず、すべての者が救われるために分かたれる。キリストの精神はおん父のもとへ上り(「父よ、私は私の精神をあなたのみ手に委ねます」)、そのおん身体は地上に留まり、更にその魂は、旧約の黄泉(シェオール)に向かい、キリストの到来を待たずにこの世を去った人々に福音を告げる(「今日あなたは、私と共に楽園にいるだろう」)Cf.Apost.trad.,LXXIX,1-3:edit.Hauler,p.119.