57. なるほど(イエス)生前、王権を行使して死の諸々の縄目を断ち切られました[1]。たとえば、「ラザロ、こちらに出て来なさい[2]」とか、あるいは「子どもよ、起きなさい[3]」とか言われています。それは、まさにご自分の力ある支配力を明らかにするためでした。ですからまさしくこういうわけで、(イエス)ご自身のすべてをあげて死に自らを委ね、飽くことを知らぬ野獣と恐ろしく巨大な(死の)縄目とが完全にそれ自身において死滅するようにされたのであります。(すなわち、死という野獣は)罪のないおん身体のあらゆるところに、固有な食べ物を探しました[4]。しかし快楽などどこにも見当りません。怒りなどどこにも見当りませんでした。また、不従順などどこにもありません。あの太古の罪、つまり、死の第一の食べ物などどこにもまったく見当りませんでした。実際、「死のとげは罪である[5]」と言われております。ところが、(死は)そのおん方のうちに死を養うものを何ひとつ見出だしません[6]。その結果、(死は)それ自身のうちに完全に閉じ込められ、空腹によって滅ぼされてしまい、死それ自身がそれ自身の死となってしまったのであります[7]



[1] この講話の著者は、本講話の第7節で提起された問題、「なぜキリストは、死者をよみがえられながら、みずからは死なれたのか」という問題に答える。

[2] Jn.11,43.

[3] Lc.8,54.

[4] Cf.Jn.14,30.

[5] 1 Co.15,56.

[6] Cf.Hippoyte,In Prov.,fgt.XXII(Achelis,p.165,6-9):「悪魔はキリストの身体に罪を見出すことができなかった。なぜなら主は、「見よ、この世の君が来た。しかしこの世の君は私の内に何も見出さない」と言われていたからである。

[7] キリストの身体は墓の中にあった。しかし彼の身体を腐敗させるはずの罪が見出されなかったので、その身体は腐敗を免れ、三日によみがえった。