「そしてセラフィムがその王座の回りに立っていた。そして、それぞれに六つの翼があった[1]」。私は二つのセラフィムを見ます。それらの一つひとつは、それ自身のうちに六つの翼を持っています。次にそれらの翼の配置が続きます。「そしてそれらは、二つの翼が顔で覆っていました」――自分の顔ではありません、神の顔です――。「他方それらは、二つの翼で足を覆っていました」――自分の足ではありません。神の足です――。「またそれらは、二つの羽で飛んでいました[2]」。ここに書き記されていることは、矛盾しているように見えます。つまり、もしもそれらが立っていたのなら、飛ぶことはできなかったのです。ところがこう書かれています。「それらは、その王座の回りに立っていた。そして、それぞれに六つの翼があった。そしてそれらは、二つの翼で顔を覆い、二つ(の翼)で足を追い、二つ(の翼)で飛んでいた。そして互いに呼び交わしていた[3]」と。実に、神の回りにいるこれらのセラフィムは、唯一無二の認識によって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな[4]」と言っていますが、このことによってそれらは、三位一体の神秘に仕えています。なぜならセラフィム自身も聖なるものだからです。実際、存在するすべてのものの中で、それら以上に聖なるものは何もないからです。またそれらは、単純に「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と互いに言い合っているのではありません。それらは、すべてのものに救いをもたらす告白を、声高らかに宣言しているのです。では、これらの二つのセラフィムは、何でしょうか。私の主なるイエスと聖霊です。(そしてセラフィムは、第一に聖なる者から聖性を得て、互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と呼び交わしています[5])。またあなたは、(聖なるかなという)これらの名前が賛美されているからと言って、三位一体の本性を論じることができるとお考えにならないでください。「それらは、神の顔を覆っていた」とあります。実際、神(の本性)への入り口は不可知なのです。また「足も覆っていた」とあります。では結局のところ、私たちの神の中でいったい何が把握されるのでしょうか。中間的なことだけが見られます。存在したもの以前のことを、私は知りません。私は存在するものから神を理解します。未来の先のことについては、まさに未来に属することであるがゆえに、私は知りません。「誰が彼に継げたか[6]」と『伝道の書』は言っています。「先にあったこと、そしてこれから起こる未知のことを私に告げてみよ。そうすれば私は、お前たちが神々であると言おう[7]」とイザヤは言っています。ですから、もしも誰かが過去のことについて言うことができ、未知のことについて言うことができるとすれば、その人は神なのです。したがってセラフィムの他に誰が言うことができるでしょうか。セラフィムを除いて誰が、「聖なるかな、聖なるか、聖なるか[8]」と、言うことができるでしょうか。ところでこれらのセラフィムは、神のどのような点が、いわば中間的なものに相当するのかを明らかにしています。セラフィムたちは、神のみ傍に立ちながら、互いに叫んでこう言っています。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と。したがってセラフィムたちは、立って動いています。そして神とともに立ちながら動き、神の証しています。実際あなたは、それらが(神の)顔を覆い、(神の)足を覆っていることをご理解ください。それらは、覆われているものを動かしません。(その顔や足を)覆いっている自分を覆いません。そしてこう言っています。「聖なるから、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。全地は主の栄光に満ちている[9]」。私の主イエス・キリストの到来が告げ知らされています。それで今、全地は主の栄光に満ちているのです。しかし正確に言うと、まだ確実には(主の栄光に)満たされていません。それは、主ご自身があなた方に祈るように命じた主の祈りが、将来、成し遂げられるとき、(全地は主の栄光に)実現されるべく満たされることでしょう。この祈りについて主は、こう言っています。「あなた方が祈るときには、こう言いなさい。天にまします我らの父よ、願わくはみ名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるごとく、地にも行われますように[10]」と。おん父のみ心はまだ天にあります。おん父のみ心は、まだ地で成し遂げられていません。イエスご自身も、彼がお取りになった肉の経綸に即して、こう言っています。「(父は)私に、天と地に及ぶ普遍的な権能をお与えになった[11]」。これは、諸々の天にいた方が、世の何がしかを受け取り、「ご自分の(民の)ところに来られる[12]」と、権能を持たなくなるということではありません。むしろ神が天において信じられていたように、地においても信じられるようになるために、人間キリストは、以前は持っていなかった権能を受け取ったのです。そして現在にいたるまで、人間キリストは、万物を支配する権能を依然として持っていません。実際、罪を犯している人々の内には、人間キリストは君臨していません。しかしまさにこれらの罪人に対する権能が彼に与えられ、「すべてのものが彼に従う[13]」ようになったとき、その権能は全うされ、キリストは、すべてをご自分の従わせて闊歩することになるでしょう。ところである人たちは、まだ彼に従おうとせず、いまだに彼の敵どもに服しています。私たちは、進んでこう言いましょう。「私の魂は、神に服さないのか。私の救いは神のもとにある[14]」と。



[1] Is.6,2.

[2] Is.6,2.

[3] Is.6,2-3.

[4] Is.6,3.

[5] ( )はヒエロニムスの補足的加筆であると思われる。

[6] Cf.Qo.6,12.

[7] Cf.Is.41,22s.

[8] Is.6,3.

[9] Is.6,3.

[10] Cf.Mt.6,9.10.

[11] Cf.Mt.28,18.

[12] Cf.Jn.1,11.

[13] Cf.Ph.3,21.

[14] Ps.61 (62),1.

 

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