2 彼は「凝乳と蜂蜜を食べるだろう[1]」とあります。どうしてキリストは、「凝乳と蜂蜜を食べるだろう」と預言されているのでしょうか。また、もこのことが神の助けのもとに説明されましても、さらに次に続く個所が、別の問題を私たちに投げかけてくるでしょう。とにかく私たちは皆、聖書に書かれていることを致しましょう。「あなた方は聖書を調べて見なさい[2]」と。物体的な食べ物の中から幾つかのものが、霊的な食物として聖書の中で挙げられています。「あなた方は、いま生まれたばかりの乳飲み子のように、偽りのない理性的な乳を求めなさい[3]」。したがって疑いもなく、理性的な乳が存在します。そして私たちは、この種の乳を探し求めねばなりません。さらに『箴言』には『蜂蜜』について次のように書かれています。「お前は、蜂蜜を見つけたら、十分なだけ食べるがよい。ただし満腹して吐き出してはならない[4]」。聖霊は、いま述べられた蜂蜜について、私たちが食べ過ぎないように配慮しているのでしょうか。とにかく聖霊は、霊的な蜂蜜のことを知っていて、次のように言っています。「お前は、蜂蜜を見つけたら、十分なだけ食べなさい」。しかし聖霊は、何を意図して私たちに、「私たちが蜂蜜を見出したなら――たしかに蜂蜜は発見できます――、私たちは十分なだけ食べなさい」と命じたのでしょうか。「お前は、蜂のところに行って、どのように働いているかを学べ[5]」と言われています。ところで預言者たちは、蜂であることがわかっています。なぜなら預言者たちは、蜜蝋を作り蜂蜜をもたらすからです。そして次のように大胆に言うのがよければ、蜂の巣は、預言者たちが残した聖書のことです[6]。あなたは望むなら、聖書の許に来てください。そうすれば、あなたは蜂蜜を見出すことでしょう[7]。さらに「お前は、蜂蜜を食べよ」とあります。また『箴言』では、「実際、蜜蝋は美味で、お前ののどに甘い[8]」と言われています。あなたは、聖霊がことを言っているとお考えになりませんか。すなわち「お前は、蜂蜜を食べよ。なぜならこの蜂蜜は」、有益で「美味だからだ[9]」と。しかし私としては、聖霊が、物体的な蜂蜜について「お前は蜂蜜を食べよ」と私に命じていると敢えて言うつもりはありません。たしかに私は、蜂蜜を食べることができないわけではありませんし、それを食べることのできない本性の持ち主でもありません。聖霊はどのような理由で、「お前は蜂蜜を食べよ」、しかし肉を食べようと望むな、むしろ「我が子よ、蜂蜜を食べよ。それは美味だ」と、私に言うのでしょうか。もしもあなたが、預言者たちが蜂であり、彼らの業が蜂蜜や蜂の巣であることを理解するなら、あなたはどのようにして、「我が子よ蜂蜜を食べよ。それば美味だ」という言葉を聖霊に品位に相応しく理解すべきかわかるでしょう。もしも誰かが、神の言葉を黙想し、聖書の諸々の言葉に養われるなら、その人は、次のように命じる掟を果たすことになります。すなわち「我が子よ、蜂蜜を食べよ」。そして命じられたことを行うと、彼は、これに続いて述べられる言葉を手にすることになります。「これは美味だ」と。なぜなら聖書の中に見出される蜂蜜は美味だからです。他方、「お前は蜂のところに行きなさい[10]」と言われていることは、次のようなことです。いわば諸々の蜂の上に君臨するある蜂が存在します。そして諸々の蜂の間に、王と呼ばれるある種の王が存在するのと同じような意味で、私の主イエス・キリストは諸々の蜂の君主となっています。そして聖霊は、私が美味な蜂蜜を食べ、のどをその蜜の甘味で満たせるように、私をその方の許に遣わすのです。おそらく蜜は、より奥深い文字のことでしょう[11]。他方、蜂蜜は、これらの文字の中で理解されたものを指します。さらに乙女から生まれた方であるインマヌエルは、凝乳と蜂蜜を食べるとともに[12]、私たち一人ひとりに凝乳を食べるように求めています。彼がどのようにして我々一人ひとりから凝乳と蜂蜜を食べるように求めているかは、み言葉が教えてくれるでしょう。私たちの心地よい諸々の業、私たちの有益でもっとも甘美な諸々の言葉が、インマヌエルが食べる蜂蜜、乙女から生まれた方が食べる蜂蜜です。これに対してもしも私たちの諸々の言葉が、苦味や怒り、憎しみ、悲しみ、悪口、悪徳、敵愾心に満たされているなら、救い主は、私たちの口に胆汁を入れるでしょう。そしてこのような(私たちの)言葉を食べることはないでしょう。しかし救い主は、人々の諸々の言葉が蜂蜜であるなら、人々の間にある言葉を食べるのです。私たちはこのことを聖書から確かめて見ましょう。「見よ、私は扉の前に立ち、たたいている。もしも誰かが私のために扉を開いたなら、私は彼の許に入って、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をするだろう[13]」とあります。ですから救い主はみずから、私たちに対して、私たちとともに食事をしようと申し出ているのです。また、もしも私たちが彼を食事招くなら、私たちも彼とともに食事をするのは確実です。実に救い主は、私たちの諸々の善き言葉、行ない、思いに基づいて、その霊的で神的でより善い食物で私たちをもてなしてくださるのです。それゆえ救い主を受け入れることは真にすばらしいことですから、私たちは、各自の主導能力の扉を開いて、救い主のために蜂蜜と必要なすべての食事を用意しましょう。それは諸々の天の国において、キリスト・イエスの内に行われるおん父との大いなる食事に、救い主が私たちを導いてくださるようになるためです。キリスト・イエスに「栄光と支配が代々にありますように。アーメン[14]」。
[1] Is.7,15.
[2] Jn.5,39.
[3] 1P.2,2.
[4] Pr.25,16.
[5] Cf.Pr.6,6.
[6]
Cf.Origenis
Hom.Jd.5,2 : diximus quod Debbora in prophetiae forma accipienda sit,
quae est apis. Certum namque est quod omnis prophetia suaves caelestis
doctrinae favos et dulcia divini eloquii mella componant.
[7] Cf.Ps.108(109),103.
[8] Pr.24,13.
[9] Pr.24,13.
[10] Cf.Pr.6,6.
[11] 本文では、melを一貫して蜂蜜と訳しているが、favusは、多義的に用いられている。そこで翻訳では、その語に対して、「蜜」ないしは「蜂の巣」の日本語を当てている。
[12] Cf.Is.7,14.15.
[13] Cf.Ap.3,20.
[14] Cf.1P.4,11.