2 しかし私は、私の主イエス・キリストに栄光を帰そうと望んでいるのですから、あなた方が私を冒涜者と見なして石を投げないようにしてください。かえってあなた方は、何が言われているかを、忍耐をもって考察してください。そうすればあなた方は、上に述べた預言者の誰一人にも霊が留まらなかったこと、しかも誰のところにも来なかったというのではなく、誰のところにも留まらなかったということがお分かりいただけるでしょう。霊は、モーセの上に来ました。そしてモーセは、後に、自分のところに来た知恵の霊を信じませんでした。実際、彼はこう言っています。「頑なな者たちよ、あなた方は聞きなさい。私はこの岩から、あなた方のために水を出さなければならないのか[1]」と。霊はすべての義人たちの上に来ました。そしてイザヤの上にも来ました。しかしイザヤは、何と言っているでしょうか。「私は汚れた唇を持っている。そして私は、汚れた唇を持つ民のただ中に生活している[2]」と。知恵の霊は、あの火鋏と炭火の後に来ました[3]。それは、「汚れた唇を持っている」人に来ましたが、彼の上に留まりませんでした。たしかに霊は、彼を奉仕者として使いましたが、彼の上には留まりませんでした。彼は、人に出会うたびに苦しめられたのです。実際、すべての人が罪を犯しているのです。「地の上には、罪を犯さず善を行う義人はいません[4]」。「誰も諸々の汚から清められていないその人の人生が一日でないとしても、彼の月日は数えられている[5]」のです。ですから(霊は)誰の上にも留まりません。私たちは福音書からも、霊が多くの人のところに臨んだが、彼らのうちには留まらなかったことを証明できます。少し前に、こう朗読されました。「私の霊は、これらの人間たちに内に永遠に留まることはない[6]」と。(私の霊は)存在しないだろうとは言われていません。「(私の霊は)留まらないだろう」と言われています。ヨハネは、(霊が)留まったただ一人の人を見ました。そしてそのしるしはこうでした。すなわち「お前は、その方の上に霊が降りてきて、その方の内に留まるのを見る。その方こそ神の子である[7]」と。ある人は、霊が降りてきたとき、神のみ言葉に仕えましが、彼は、少し後で罪を犯します。少し後で怠惰な言葉を語ります。しかし私は、人がまさに罪なしに留まるのかどうか知りません。あなたは、霊が現存するとき、人が罪を犯すことが許されるとお考えですか[8]。ですから神の霊は、いかなる人の上にも留まらなかったのです。それはこう書かれている通りです。「エッサイの根から若枝が出た。そしてその根から花が上った。そして神の霊、知恵の霊、識別の霊、思慮の霊、勇気の霊がその花の上に留まる[9]」と。それ故、偉大な思慮の天使が存在します。それ故に(その彼は)、力を増しました[10]。そして力を増しつつ上っていきました。そして諸々の霊的存在者は、その方が上っていくのに驚き、その方についてこう言っているのです。その方は、「戦いにおいてたくましく力ある主」であると[11]。諸々の天に昇っていかれたこの方、ないしはこの方の力強さに関して私はこう申し上げたいと思います。「その肩の上に思慮と力の霊が留まった[12]」、「主は、私の力、私の賛美。主は私にとって救いになった[13]」と。したがって「神の霊、知恵の霊、識別の霊、思慮の霊、勇気の霊、知識の霊、信心の霊が彼の上に留まりました。そして神を畏れる霊が彼を満たした」のです。
[1] Nb.20,10; cf. Hom.Nb.6,3.
[2] Is.6,5.
[3] Is.6,6.
[4] Cf.Pred.Sal.7,21.
[5] Cf.Jb.14,4.
[6] Gn.6,3.
[7]
Cf.Jn.1,33.34.
[8]
Cf.Hom.Nb.6,3:
dicit enim Iohannes baptista de eo >... super quem videris spiritum
descendentem et manentem in eo, ipse est< ... addidit >et manentem in
eo<, ut esset hoc signi in Salvatore, quod in nullo alio posset ostendi
… constat reliquos omnes fuisse sub peccato … Et quo modo convenit ut
tempore peccati mansisse in iis dicamus Spiritum sanctum?
[9]
Cf.Is.11,1.2.
[10] Cf.Is.9,6.
[11] Cf.Ps.23(24),8.
[12] Is.11,2.
[13] Is.12,2.