2 「全地は、主の栄光に満つ[1]」。かつては神殿が、栄光に満たされていました。しかし今では、地の上にいる(すべての)人々に対して、キリストは全地を神の栄光で満たすことになろうと、セラフィムによって預言されているのです。実際、各自の暮らしにおいて神に栄光を帰すすべての人たちの内に、神の栄光は存在します。また、このようにして神の栄光は、全地に満ちるのです。かつて全地は、神の栄光に満たされていませんでした。しかし「神はユダヤに知られている。神の大いなる名はイスラエルの内に[2]」と言われていた時代には、地の一角だけが神の栄光に満たされていました。「全地が神の栄光に満たされる」ために、「ご自分のおん子をお遣わしになった」神に栄光がありますように[3]。しかし至る所にある福者たちの諸教会のゆえに全地が神の栄光に満ちても、あなたが神の栄光の「充満[4]」に参与していなければ、何の益があなたにあるでしょうか。ですからあなたも努力してください。そして万事につけて神の栄光が輝きわたるようにしてください。そうして神があなたの内にも場所を見出してお住まいになり、あなたも、神の栄光が存在する全地とともに神の栄光に満たされるようにしてください。どのようにして私たちの一人ひとりを通して神の栄光の充満が生じるのでしょうか。もしも私の行うこと、私の語ることが、神の栄光のためになされるなら、私の言葉と行ないは、神の栄光に満たされることになります。もしも私の前進後退の歩みが神の栄光のためにあるならば、もしも私の飲食が、要するに私のなすすべてのことが神の栄光のために行われるならば[5]、この私も、「全地は神の栄光に満つ」という言葉を分かち持つことになります。ですから私がこれらすべてのことを行ったなら、「(二人のセラフィムが)叫ぶ声によって、(神殿の入口の)敷居は上げられるのです[6]」。こうして私たちの一人ひとりが、神のキリストの理解になぞらえられる戸口とその敷居とに与る者となるように努力することは、幸いなことです。実際、戸口を肉(的な意味)、敷居を(霊的な意味での)み言葉と呼ぶことは、不適切なことではないと私には思われます。