「ウジヤ王が死んだとき、私は、主がいと高きところにある玉座の上に座っているのを見た。そして神殿は、主の栄光に満たされていた。そしてセラフィムが、主のまわりに立っていた。それぞれ六つの翼を持ち、二つの翼をもってその方の顔を覆い、二つの翼をもってその方の足を覆い、二つの翼をもって飛んでいた。そしてそれらのセラフィムは、互いに叫び合ってこう言っていた。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主[1]」云々と。実に私たちも、イザヤが見た幻を見ることができるように、目の見えない人たちに視力を惜しみなく与えてくださったイエスを呼びましょう[2]。実際イエスは、今でもここに訪れて、神秘の朗読で言われた個所を、私たちの目を開いて、私たちが観るようにさせることがおできになるのです。私たちはもう、「キリストの体を売春婦の体[3]」にしないと彼に約束しましょう。私たちは一人ひとり、これらの言葉を心から神に申し上げ、キリストの到来がさらにいま行われるように願いましょう。もしもキリストが到来していないとすれば、私たちはこれらのことを見ることができません。私は、セラフィムが私のところにも遣わされて、鋏で取られた炭で私の唇を清めるように祈り求めます。またこの唇という言葉で私は何を言おうとしているのでしょうか。イザヤは聖なる人でした。それゆえ彼の唇だけが清められました。なぜなら彼は、唇だけで、すなわち言葉だけで罪を犯したに過ぎないからです。ところが私は、「私は汚れた唇を持っています」と言うことができるほどの人物ではありません[4]。私は、汚れた心、汚れた目、汚れた耳、口を持っているのではないかと心配です。私がこれらすべてにおいて罪を犯している限り、私は完全に汚れています。もしも私が情欲を抱いて女を見たならば、私は既に私の心の中で彼女に姦通の罪を犯していることになります[5](この私を)ご覧ください、汚れた目があります。もしも罪人である私から悪い考え、姦通、姦淫、偽証が出ているのであれば[6]、ご覧ください、(私の)汚れた心があります。平和の福音を告げ、善き知らせを告げる者たちの足は何と麗しいことか[7]。しかしこの私は、悪に向かって走っていて、汚れた足を持っているのではないかと心配です。私は、私の両手を神に向かって広げます。おそらく神は、自分の顔を背けて言うでしょう。「お前たちが手を広げても、私はお前たちから私の顔を背ける[8]」と。では、誰が私を清めるのでしょうか。誰が私の足を洗うのでしょうか。イエスよ、来てください。私の足は汚らわしいです。来てください。そして私の足を洗ってください[9]。私は、自分の言っていることが無思慮なことだと知っています。しかし私は次のように言う方の警告を恐れているのです。「もしも私があなたの足を洗わなかったら、あなたは、おん父や私と関わりを持たなくなる[10]」と。ですから私がおん父やあなたと関わりを持てるように、私の足を洗ってください。しかしなぜ、「私の足を洗ってください」と私は言うのでしょうか。ペトロは、ただ自分の足を洗うためでなければ言う必要のなかったのに、このことを言うことができました。実に彼は、全体が清かったのです。しかし私は、一度洗い清められたというのに、主が語っている洗礼を必要としています。主は言っています。「私は別の洗礼を受けなければならない[11]」。なぜ私たちは、この言葉を言ったのでしょうか。私は、私自身と聞き手の皆さんを、より偉大な神秘に備えさせているのです。ただしそのためには、神のみ言葉が訪れねばなりません。神のみ言葉が私たちのところに降ってこなければなりません。実に私は、み言葉がわしを避けるのではないか、私を祝福に値しないと見なすのではないか心配です。み言葉は、ただ一人の罪人アカンのゆえにある人々を避けました。すなわち「ゼラの子孫、カミルの子、ユダ族出身のアカン[12]」ただ一人の罪によって、み言葉は民を避けたのです。アカンは、神に不従順だったので、断罪されました。そして今日は、安息日の前日ですから、そして何よりも主の受難を記念する主の日ですから多くの人々がいます――実際、主の復活は年に一度祝われるのではなく、また常に八日目に祝われるのでもありません[13]――、そこであなた方は、主のみ言葉が私たちのところに来てくださるように、全能の神に祈りましょう。たとえあなた方が罪人でも、あなた方は祈りましょう。神は罪人の祈りに耳を傾けてくださいます。たとえあなた方が、福音書で言われていることを恐れているとしても、つまり「私たちは、神が罪人の祈りに耳を傾けられないのを知っています[14]」という言葉を恐れているとしても、 あなた方は恐れおののいてはなりません。あなた方は、このように仰せになった方が「(物事の真相が見えない)盲人[15]」だと思わないようにしてください。むしろあなた方は、次のように言って偽らない方を信じなければなりません。すなわち「たとえあなた方の罪が紅のようにであっても、私は羊毛のように(白く)洗い清める。あなた方が望んで、私に耳を傾けるなら、大地の善き実りを食べるだろう[16]」と。もしもあなた方が進んで耳を傾けようと望むなら、私たちは、一緒に主に祈りましょう。とにかく今、み言葉が来てくださって、私たちが預言の言葉に注意深くなれるようにと。



[1] Is.6,1-3.

[2] Cf.eg.Mt.20,34.

[3] Cf.1Co.6,13.

[4] Cf.Is.6,5; Hom.Lv.9,5: indigebat … propheta sola purgatione labiorum ... Nos vero vereor, ne ignem non membris singulis, sed toto corpore mereamur etc.

[5] Cf.Mt.5,28.

[6] Cf.Mt.5,19.

[7] Cf.Rm.10,15; Is.52,7.

[8] Is.1,15.

[9] Cf.Jn.13,5.

[10] Cf.Jn.13,8.

[11] Cf.Lc.12,50.

[12] Cf.Jos.7,1;7,16s.

[13] Et quia nunc populi multitudo est propter parasceuen et maxime in dominica die, quae passionis Christi commemoratrix est --- neque enim resurrectio Domini semel in anno et non semper post octo dies celebratur ---,;安息日は、太陽暦の金曜日の日没から土曜日の日没前であるから、この説教が行われているのは、主の受難を記念する金曜日である。また復活は、安息日(週の第七日)の翌日、すなわち週の第八日に行われた。

[14] Cf.Jn.9,31.

[15] Cf.Jn.9,24.

[16] Is.1,18.19.

 

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