2 ともかく私たちは、部分的にであれ、彼とともに振る舞いましょう。すなわちイザヤは、神から恵みを受けたとき、それを無駄に受けようとは望ます、必要なことに役立てようと望みました。彼は、セラフィムを見、万軍の主が高く上げられた玉座に座っているのを見て、こう言っていました。「ああ、私は惨めだ。なぜなら私は、良心を痛めたから。私は人間であり汚れた唇を持っているのに、また汚れた唇を持つ民のただ中に生活しているのに、王たる万軍の主を私の両目で見たから[1]」と。イザヤは、こう言ってみずからを惨めな者にしたおかげで、(神からの)助けに値しました。神が彼の謙遜を受け入れられたからです。この助けとは、何でしょうか。彼は、こう言っています。「セラフィムの一人が私に遣わされた。彼は、祭壇から取ってきた炭をはさみで持ち、私の唇に触れて言った。『見よ、私は、あなたの諸々の不正を取り除き、あなたの諸々の罪を清めた』[2]」と。イザヤは、恩恵を受けて清い者となり、諸々の罪の赦しを得たのです。彼が「私は誰をこの民のもとに遣わそうか。そして誰が我々のために行くだろうか」という言葉を聞いたとき、イザヤは、以前の良心の呵責のゆえに敢えて「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください[3]」と言ったのではありません。彼は、「見よ、私はあなたの諸々の不正を取り除いた[4]」という言葉を聞いたので、敢えてそう言ったのです。かくして(モーセやイザヤという)聖人たちが(ここで)良心を咎められてしまったわけですから、またモーセとイザヤの比較がされていますので、私たちは、モーセのためにも、またイザヤのためにも償いをして、彼らに対して聖書からそれぞれの帰結を与えることにしましょう。モーセは、諸々の罪の赦しを受けなかったので、自分が清められたことを既に自覚するかのように、「私をお遣わしください」と言うことができませんでした。それで彼は、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[5]」と言ったのです。たしかに彼は、エジプト人の殺害を意識の中に持っていました[6]。おそらく彼は、人間として、ある別の罪を持っていると自覚していたのでしょう。それゆえ彼は、(派遣を)断ったのです。他方、イザヤが奉仕を申し出たのは、生まれつき正しかったからではなく、恵みを得たからです。もしもモーセも、似たような恵みを受け取り、「見よ、私はあなたの諸々の不正を取り去った」という言葉を聞いたなら、また「あなたの諸々の罪を清めた[7]」という言葉を聞いたなら、おそらく彼は決して、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[8]」とは言わなかったでしょう。モーセが(派遣を)断ったのと、イザヤが「ご覧ください、私がおります。私をお遣わしください[9]」といったのには、それぞれ何らかの理由があったのです。
[1] Is.6,5.
[2] Is.6,6.7.
[3] Is.6,8.
[4] Cf.Is.6,7.
[5] Ex.4,13.
[6] Ex.2,12.
[7] Is.6,7.
[8] Ex.4,13.
[9] Is.6,8.