第八講話

 

「あなた方は、エルサレムとサマリアにある諸々の彫像を嘆け」と書かれている個所から、「私は、人々の住まう諸々の町を揺り動かす」と言われている個所まで。

 

 かつて、(ユダヤ人という)以前の民は罪を犯したとき、信仰から離れました。そしてユダは、エルサレムで彫像を制作し、エルサレムと呼ばれた人は、サマリアでそれを制作いたしました[1]。ところでもしも今、罪人たちを縛り集める多くの人たちの内の誰かが思い巡らすとすれば、その人は臆せず次のように言うでしょう。すなわち善しと考えて神を作り、罪に仕える人は皆、呪われている[2]。彼は、彫像を作り、職人の手の業を成し遂げ、それを秘められた場所に置くと。実際、私たちは、もしも罪を犯せば、心の秘められた場所に諸々の偶像を作るものです。それで(聖書の)み言葉は、私たちが痛悔し、「エルサレムとサマリア」にある諸々の偶像を嘆くように、私たちに教えているのです。実に、教会に属することを願う私たちが[3]、もしも罪を犯したなら、私たちはエルサレムの中に諸々の彫像を作ることになります。教会の外に置かれた人たちが、異端者と同じように罪を犯すなら、その人たちはサマリアの中に諸々の偶像を作ることになります。しかしながら神は、ご自分の善性に従ってすべての人を痛悔に招いて言っています。「あなた方は、エルサレムとサマリアにある諸々の彫像を嘆け。なぜなら私は、かつてサマリアとその制作物に対してしたように、エルサレムとその諸々の偶像に対して行う[4]」と。神は、サマリア人たちに対して行ったあらゆることをもって、教会に属する人たちに脅しをかけています。「しかし主は、シオンの山とエルサレムにおいてすべてを行い、それを成し遂げたとき、アッシリア人たちの支配者という尊大な思いと、彼の高ぶる目の輝きに向かう[5]」とあります。私たちは、今の預言がその思いは尊大と告げているところの私たちの敵・悪魔に、将来、何が起こるか教えられます。実際、地上にいるすべての獣たちよりも蛇が賢かったのであり[6]、「このよの子らは、自分の仲間に対しては、光の子らにまさって賢く」、「不正な管理人は、善くない知恵に従って賢く振る舞います[7]」。それと同じように、象徴的に「アッシリア人たちの支配者」と言われるものは[8]、尊大な思いのことであり、その思いの尊大さを賞賛することなのです。そしてこの世の知者たちを教えるためにこの尊大さを利用したのが、一切の真実らしさとあらゆる美徳をあげて、各自の分派の虚偽を作り出して提示する人々なのです。こういうわけで、「神は、シオンの山とエルサレムにおいてすべてを行い、義人たちに約束されていたものを報いたなら、アッシリア人たちの支配者という尊大な思いと、彼の高ぶる目の輝きに向かう[9]」のです。聖書は、彼が「高ぶったこと」を思い抱いたこと[10]、そして彼の滅びの端緒が思い上がりから始まったことを知っています。ですからもしも私たちが思い上がったなら、悪魔が陥ったのと同じ悪魔の裁きに私たちも陥ることになるのです。



[1] Cf.Is.10,10.

[2] Cf.Hom.Jdt.2,3:unusquisque quod prae ceteris colit, quod super omnia miratur ..., hoc ei Deus est.

[3] nos … qui esse de ecclesia cupimus,...

[4] Is.10,10.11.

[5] Is.10,12.

[6] Cf.Gn.3,1.

[7] Cf.Lc.16,8s.

[8] Cf.eg.Hom.Jr.1,4: tw|/ satana/| paradido,meqa ))) o;nti Naboucodono,sor)

[9] Is.10,12.

[10] Cf.Rm.12,16.

 

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