[第九講話]

 

「そして私は主の声が次のように言うのを聞いた。『私は誰を遣わすべきか。そして誰があの民のところに行くだろうか』と書かれていることについて。そして少し飛ばして、「あなたは、自分のために、あなたの神なる主に、深淵にあるいは高きところにしるしを求めよ」と書かれている個所まで。

 

 「そして私は次のように言う主の声を聞いた。『私は誰を遣わすべきか。そして誰があの民のところに行くだろうか』。そして私は言った。『ご覧ください、私がおります。私をお遣わしください』。そして(主は)言われた。『あなたは行って、この民に次のように言いなさい。あなた方は耳で聞くが、理解しないだろう』云々[1]」とあります。このイザヤの預言の言葉がいま語っていることについて、神が恵みを惜しみなく与えてくださり、私たちが預言の霊に相応しいしく説明することができるように祈りましょう。「そしてわたしは次のように言う神の声を聞いた。『私は誰を遣わそうか』と」。預言者は、その唇を清められたので、覚悟して神の奉仕を受け入れ、次のよう言います。「ご覧ください、私がおります。私をお遣わしください」と。そして彼は、この奉仕のためによりふさわしい覚悟ができるよう、モーセの言葉を思い出しました。実際モーセも、同じ言葉を使って言っています。「私をお遣わしください[2]」と。モーセは、民の指導者、審判者となり、神の僕と呼ばれました[3]。しかしあるヘブライ人が、この個所を説明して、次のように言うのを聞きました。確かに預言者はみずから進んで、また覚悟を決めて、民への預言を引き受けたが、そのとき何を言わねばならないのか知らなかった。かえって彼は、民に告げられるべきことは悲しい事柄であることを聞いた。「あなた方は耳で聞くが、理解しないだろう」云々と。そしてさらに続く言葉で彼は、もっと気乗りしなくなった。預言者は、神の声が「あなたは叫べ」と自分に言ってきたのでそれに応えて、次のように言った。すなわち「私は何と叫びましょうか[4]」と。しかし私は、これらの言葉は、救い主について預言していると思います。なぜなら「彼らは聞いても、聞かない。見ても、見ない[5]」ということは、後に実現したからです。さらに、この言葉は、もしも私たちが「あなた方は心して見よ。そして見ないだろう」というほんのわずかな個所を考慮に入れれば、もっと明瞭になります。それはこういうことです。当時のユダヤ人たちは、盲人たちが視力を回復するのを見ましたが、その視覚の理由を知りませんでした。彼らは諸々のたとえ話を聞きました。そして「救い主は、それらのたとえ話を弟子たちに密かに解き明かました[6]」。しかし彼ら自身は、どんなことが言われているか分からず、聞いていなかったのです。それで(救い主は)、彼らについて証してこう言ったのです。「聞く耳を持つ人は、聞きなさい[7]」と。もちろん彼らは、この(生身の)耳が奪われて、聞けないようになったのではありません。彼らの内的な耳が聞くには重くなっていたのです。このようなわけで(主は)、彼らに対して宣言し、預言者を通して未来のことを予言して、こう言っているのです。「あなた方は耳で聞くが、理解しないだろう。心して見ても、見ないだろう。なぜならこの民の心は固くされているからである[8]」と。「この他の民の心は固くされている[9]」と言われていることが何を意味するか、私たちは検討してみましょう。現在の生活の思い煩いの中に留まっているすべての人は、心を固くされています。世俗的な事柄に留まっている人たちも、雑事に忙殺されている人たちも、その心は固くされています。それゆえ心は、肥えて固くなり、よりほっそりとした霊の諸観念を受け取ることができないのです。ですから私たちは、そのような思い煩いから逃げましょう。そして私たちの心が軽く繊細となり、神に受け入れられるものとなるようにしましょう。モーセの言葉は繊細なものになったのもこのためです――それは『出エジプト記』の中に書かれているとおりです[10]――。実際(救い主は)、このような繊細さのゆえに「清い心の人たちは皆、神を見るであろう[11]」と言っています。三つのことが言われています。一つは「この民の心は固くされている」、二つ目は「彼らの耳は重い[12]」、三つ目は「彼らは目を閉じている」のです。この個所で言われていることは、別の仕方でもより明瞭に理解することができます。すなわち人々の内の多くが、諸々の被造物を観察し、この世界を調べながら考え、また、自分がそれらを見ているのを考えます。では、なぜ私は、「人々の内の」と言っているのでしょうか。ご覧ください。空を飛ぶものたちや四足のものたちは、太陽や月、あるいは星団を含めて全宇宙を見ますが、それらの諸々の理拠を理解しません。ただ正しく聖なるものたちだけが、神の知恵の理拠を通して把握しつつ、それらを観察します。それで詩編の第八番でダビデはこう言っているのです。「なぜなら私は、あなたのすべての天、あなたの指の業、あなたが据えられた月と諸々の星を見るでしょう[13]」と。預言者は、なぜ今、天と星を見ないのでしょうか。「私は見るでしょう[14]」と言っています。私たちは、考えてみれば、理解することができるでしょう。



[1] Is.6,8-9.

[2] Cf.Ex.4,13;モーセは、実際には、このようなことを言っていない。

[3] Cf.Jos.1,13s.

[4] Is.40,6;この個所では、民が枯れ草のように虚しいことが預言されている。

[5] Cf.Mt.13,13.

[6] Mc.4,34.

[7] Mt.13,9.

[8] Is.6,9.10.

[9] Is.6,10.

[10] Cf.Ex.4,10s                   .

[11] Mt.5,8.

[12] 直訳は、「彼らは、自分の耳で、重く聞く」。

[13] Ps.8,4.

[14] Ps.8,4.

 

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