10  他方、「私は、お前を(母の)胎内に形作る前から、お前を知っていた[1]」という言葉は、エレミアに対して言われていようと、救い主に対して言われていようと、『創世記』を読み、宇宙の創造について言われていることに留意すれば、聖書がこの上なく巧みに言葉を使い分けていることに、あなたはお気づきになるはずです[2]。すなわち聖書は、「私は、お前を(母の)胎内に造る前から、お前を知っていた」とは言ってはいないのです。たしかに「像にかたどられた[3]」人間が創造されたとき、「神は『私たちの像と似姿にかたどって人間を造ろう[4]』と言われました[5]」が、「私たちは形作ろう」とは言われませんでした。ところが、神が「大地から土くれを」取ったときには、人間をお造りになりませんでした。神は、「人間を形作った[6]」のであります。そして、「おんみずから形作になった人間を楽園のなかに置いて、これを耕させ、守るようにさせた[7]」のです。ですから、もしもできますならば、造ること[8]と形作ること[9]との違いを念頭において、なぜ、エレミアにであれ、救い主にであれ、お語りになった主が、「私は、お前を(母の)胎内に造る前から、お前を知っていた」と言われなかったのかをお考えください。実際、造られたものは、母胎のなかには生じません。大地の土くれから形作られたものが、母胎のなかで創造されるのです[10]

「私は、お前を(母の)胎内に形作るまえから、お前を知っていた[11]」。もしも主がすべてのものを知っていたのなら    たしかにこの言葉には、「私は話す言葉を知りません[12]」という言葉を突き合わせる必要があります    、主はことさらエレミアに、「私はお前を知っていた」とは言われなかったでしょう。神は、際立った者たちをご存知なのです。神は、ご自身の認知に値する者たちをご存知なのです[13]。実に「主は、ご自分に属するものをご存知なのです[14]」。神は、(認知に)値しない者たちをお知りになりません。救い主もまた、(そのような認知に)値しない者たちお知りにはなりません。救い主はこう言っております。「私はお前たちをまったく知らない[15]」。私たち人間は、私たちが進歩した範囲内で、一体どのようなものが私たちの知識に値するのかを判断します。また、私たちが知りたくもなければ、認めたいたくもないときは、聞きたいとは思わないものもあります。逆に、知りたくて、聞きたいと思うものもあります。ところが、どうでありましょうか すべてのものの神は、ファラオをお知りになりたいのです。エジプト人たちをお知りになりたいのです。しかし彼らは、神の知識に値しなかったのであります。モーセは値しました。そしてどの預言者もそうでした[16]。神があなたを知るようになるには、あなたは多くのことを正さなければならないでしょう[17]。たしかに神は、エレミアを「(母の)胎内に形作るまえから」知っていました。しかし、三十歳になった人や四十歳になった人を知るのとは、ずいぶん事情が違います。

救い主に関わるものとすると、言語を絶していて説明に窮するということはありませんが、エレミアに関するものとすると、「聞く耳のある人たち[18]」には、注意を要する言葉もあります。



[1] Jr.1,5.

[2] 無からの創造(造る)とその他の創造(作る・形作る)の区別が問題になっている。

[3] Gn.1,27: o kateiko,na:即像性は、オリゲネスの人間論にとって重要な概念である。

[4] kat’Veivko,na kai. o`moi,wsin h`mete,ran

[5] Gn.1,26.

[6] Gn.2,7.

[7] Cf.Gn.2,15.

[8] poi,hsij

[9] pla,sij

[10] オリゲネスは、創世記の二つの創造の記事に基づいて、人間の創造を二段階に分けている。第一の創造は、人間の精神の創造である(Gn.1,26)。第二の創造は、精神が罪を犯し堕落して魂となった時に、それに与えられた身体の創造である(Gn.2,7)Cf. Com.Jn.XX,22 (20); Entretien avec Héraclide 15, 28 à 16,10; Hom.Gn.I,13; Com.Mt.XIV,16; cf.H.Crouzel, Théologie de l’image de Dieu chez Origène, Paris,1956,p.148-153.

[11] Jr.1,5.

[12] Jr.1,6.

[13] Cf. De orat.21,2.

[14] 2 Tm.2,19.

[15] Mt.7,23.

[16] オリゲネスは、モーセを預言者と見ている。Cf.Justin,1er Apol.,32,1.

[17] Cf.In Jn.Fgt.LXXI :「神に知られ嘉されるには、進歩が必要である」。

[18] Cf.Mt.11,15.

 

 

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