神は、エルサレムを、その数々の罪のゆえに断罪しました。そしてエルサレムの人々は、捕囚の判決を受けたのでした。しかし、人類愛に満ちた神は、然るべきときが来たとき、捕囚の危機に瀕した第三王朝に、まさにこの預言者をお遣わしになったのです。それは、望む者たちが、預言者の言葉によって、思い返し回心するようになるためでした。神は、第一の王に次いで第二の王の許に、また捕囚そのものが始まるまでの第三の王の許に、預言者を預言にお遣わしになりました。たしかに度量が大きくて寛大な神は、こう言ってよければ、まさに捕囚のつい前日まで猶予期間をお与えになり、話を聞く者たちに悔い改めを勧め、捕囚の陰惨な悲しみがなくなってしまうようにされたのです。そういうわけで「エレミアは、(その年の)五月、すなわちエルサレムの捕囚(の日)まで預言をした[1]」と書かれているのです。(もちろん)捕囚は、始まってしまいました。しかしエレミアは、それでも預言をします。彼は、たぶん次のように言ったでありましょう。「あなた方は囚われの身となった。しかしそれでもあなた方は、悔い改めなさい。実際、あなた方が悔い改めれば、捕囚の事件は長引かず、かえって神のあわれみが、あなた方に臨むだろう」と。

 私たちは、預言の日時を記したこの記録から、有益なことを手に入れることができます。すなわち神は、ご自身の人類愛のゆえに、預言を聞いた人たちが捕囚の憂き目に遭わないように、その人たちを説得なさる、ということです。これに類することは、私たちの身の回りにもあります。もしも私たちが罪を犯せば、私たちもまた必ずや囚われ人になるでありましょう。実際、「その人をサタンに引き渡す[2]」ことは、エルサレムの住人たちをネブカドネザルに引き渡すことと、何の違いもないのです。彼らは、罪のゆえにネブカドネザルに引き渡されました。同じように私たちも、罪のゆえに、ネブカドネザルであるサタンに[3]引き渡されるのです。使徒は、その他の罪人たちについて次のように言っております。「私は、彼らが(神を)冒涜してはならないことを教えられるために、彼らをサタンに引き渡しました[4]」と。



[1] Cf.Jr.1,3.

[2] 1 Co.5,5.

[3] 「ネブカドネザル」は悪魔を表している。cf.Hom.Jr.XIX, 14; Hom.Nb.XI,4; Hom.Ez. XI,5.

[4] 1 Tm.1,20.

 

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