神からみ言葉を受け、天来のみ言葉の恵みを受けている人はみな、「諸々の民と諸々の王国を根絶やし、絶滅させるために[1]」それらのみ言葉を受けました。しかし神からみ言葉を受けた人がみな、「諸々の民と諸々の王国を根絶やす」と言われても、どうか、これら「諸々の民と諸々の王国」とを身体的な意味で理解しないようにしてください。むしろそれらは、使徒の書簡で言われておりますように、罪に支配されている人間の諸々の魂だとお考えください。「私たちの死すべき体を、罪に支配させてはなりません[2]」と言われています。また、数多くの罪を目にするのであれば、「諸々の民と諸々の王国」を、人々の魂に巣くう数々の卑劣な事柄を意味するものとして、象徴的に解釈するようにしてください。それらは、エレミアあるいはその他の任意の人に与えられた神のみ言葉によって、根絶やされ絶滅させられるものなのです。このようにすれば、救い主に当てはめてみますと厄介なことになる最初の言葉が[3]エレミアに適合し得るのはもちろんのこと、さらに第二の言葉も[4]、象徴的に解釈することができる人にとっては、エレミアに適合し得るものとなるのです。

私の話をお聞きになっている方々のうちには、私に次のように言う人がいるかもしれません。「その他の言葉も解き明かしてください。そして救い主に適合するすべての記述を解明するようにしてください。第二の言葉については、厄介なことはありません。なぜなら救い主が、悪魔に属する諸々の王国を根絶やし、また諸々の民を、その異邦の生活を破壊することによって滅ぼしたのは明らかだからです。そこで、救い主に当てはめてみますと暴言のように思われる言葉について、何とか解き明かしてみてください。どうして救い主は、『私は話す言葉を知りません。なぜなら、私は若いからです[5]』などと言うことができるでしょうか」と。

あなたは、これらの言葉が厄介なものであることにお気づきです。私たちは、救い主が主であることを知っています。私たちは、それらの言葉を、み言葉の品位に相応しくかつ真理に即して、救い主に当てはめるようにしてみましょう。聖書を証人として引き合いに出さねばなりません。なぜなら(このままでは)、私たちの試みには証言による裏付けがなくなり、私たちの解釈は信用できないものとなるからです。<それに>「すべての言葉は、二人ないしは三人の証人の証言によって確かなものとなる[6]」という言葉は、人間によりも、解釈の方に当てはまるのです。ですから私は、新約と旧約とから二人の証人を出し、福音と預言者と使徒から三人の証人を出すことによって、(私たちの)解釈を確かなものとすることにいたしましょう。実にこのようにして、「すべての言葉は、確かなものとなる」のです。では、私たちは、一体どのような意味でこれらの言葉を救い主に適応できるのでしょうか。旧約聖書を証人として引き出してみましょう。「それゆえ、その子は、善悪を知るまえに、邪悪を拒み、善を選ぶ[7]」とあります。また、(預言者)イザヤでは、救い主について次のことがはっきりと言われています。「見よ、乙女が子どもを身ごもって産むであろう。その名は、インマヌエルと呼ばれる[8]」。「その子は、(善悪を)知るまえに」という言葉は、この後に続いています。さらに福音からも例を引かなければならないとすれば、イエズスは、大人でなくまだ子どもであったとき、「ご自身をむなしくしていたので[9]」「進歩いたしました」。    実際、完成の域に達した人なら、進歩はしません。進歩を必要とする者が、進歩するのです。    ですからイエズスは、「年齢」において進歩し、「知恵」において進歩し、「神と人々のまえで恵まれながら」進歩したのです[10]。たしかに、救い主が「ご自分をむなしくして」この世にお降りになり、しかも「ご自身をむなしくされた」にもかかわらず、「ご自身をむなしくして」捨て去ったものを、再び手に入れられたのであれば    救い主は、みずから進んで「ご自分をむなしくした」のです    、そうであれば、彼が「知恵と年齢において、また、神と人々のまえで恵まれながら」進歩したことが、どうして馬鹿げたことなのでしょうか。また彼については、「善と邪悪を知るまえに、善を選び、邪悪を拒む」という言葉や、私がイザヤから引用した(その他の)言葉が真実当てはまるということに、どうしておかしいことがあるでしょうか。



[1] Jr.1,10.

[2] Rm.6,12.

[3] Jr.1,6.

[4] Jr.1,10.

[5] Jr.1,6.

[6] Dt.19,15.

[7] Is.7,16.

[8] Is.7,14.

[9] Ph.2,7.

[10] Lc.2,52.

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