「彼らは、私に対して思い巡らし、こう言った。『さあ、私たちは、彼のパンに木を投げ入れよう』と[1]」。ユダヤ人たちが彼を十字架に付けたのは明らかであり、私たちは公然とこのことを告げ知らせます。しかしあなたはこれをどのようにして、「彼らは、私に対して思い巡らし、『さあ、私たちは、彼のパンに木を投げ入れよう』と言った」という言葉に結びつけるのでしょうか。これを考えてみなければなりません[2]。イエスのパンは、私たちを養うものです。ですから、彼が民の間で教えを述べられたとき、彼らは、彼を十字架に付けることによって、彼の教えの中に躓きを置こうとしました。そのとき彼らは、言いました。「私たちは、彼のパンに木を投げ入れよう」と。たしかにイエスの教えのみ言葉に、教師の磔刑[3]が加えられたとき、彼のパンに木が投げ入れられました。ですから、彼らは彼らで謀りごとを思い巡らしながら、「さあ、私たちは、彼のパンに木を投げ入れよう」と言えばいいのです。しかし私は、逆説的なことを言いたいと思います。すなわち、彼のパンに投げ入れられた木は、そのパンをいっそう強くしたのです。モーセの律法から例を引いてみます。「苦水に投げ込まれた木は、その水を甘くした[4]」と。これと同じように、イエス・キリストのご受難の木が、(彼の教えの)み言葉に投げ入れられたところ、それは、彼のパンをいっそう甘いものにしたのです[5]。実際、この木が彼のパンに入る前は、パンだけがありました。そして木が彼の教えの中になかったときは、「彼の言葉が全地に及ぶ[6]」ことはありませんでした。しかしパンがそれに投げ込まれた木によって、力を増し加えたとき、これによって彼の教えのみ言葉は、全居住地を占めたのです[7]。木は、イエスのご受難の象徴なのです。その木によって苦水は甘いものになりました。私はこう言いたいと思います。「律法は、(霊的に)理解されなければ、苦水です。しかしイエスの木が(それに)入り、私の救い主の教えが訪れたとき、モーセの律法は甘いものとなり、読むのに甘く、知るのに甘美なものとなったのです」と。



[1] Jr.11,19.

[2] Cf. Justin, Dial, 67,2-3.

[3] to. evstaurw/sqai to.n dida,skalon

[4] Cf.Ex.15,25;cf. Justin, Dial.86,1; Tertullien, Adv.Jud. 13; De bapt.9,2.

[5] to. xu,lon tou/ pa,qouj VIhsou/ Cristou/ evlqo.n eivj to.n lo,gon pepoi,hken to.n a;rton auvtou/ gluku,teron)

[6] Ps.18,5.

[7] dia. tou/to o` lo,goj th/j didaskali,aj auvtou/ nene,mhtai o]lhn th.n oivkoume,nhn)

 

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