「いつまで大地は嘆き、野の草は、その大地に住む人たちの悪によって枯れたままなのか[1]」。ここでも預言者(エレミア)は、あたかも大地が生きているかのように論じて、大地がそこを歩む人たちの悪によって嘆いていると言っています。したがって私たち一人ひとりについても、大地は嘆き、あるいは歓喜するのです。なぜなら大地は、「そこに住む人々の悪によって」嘆くか、「そこに住む人々の」徳によって歓喜するからです。私たち一人ひとりにおいて元素そのものが[2]歓喜し、あるいは嘆くのです。大地がそうだとすれば、おそらく残りの諸元素もそうでしょう。私は、水と水の管理を任された天使[3]とについても同様のことを述べ、大地が嘆いたり嘆かなかったりすることを説明したいと思います。すなわち、この大地という物体が、「そこの住む人たちの悪によって嘆く[4]」のではないのです。どうかあなたは、万物を管理するために、ある天使が大地の管理を任され、またある天使が水の管理を任され、別の天使が空気の管理を任され、さらに第四の天使が火の管理を任されているをお考えください[5]。同様にどうかあなたは理性によって、動物の管理、植物の管理、天の星の管理と、管理のすべてに思いを上げてください。ある天使は太陽の管理を任されており、他の天使は月の管理を任されており、また<別の>天使たちは諸々の星の管理を任されています[6]。さて、このような天使たちが、地上に住む私たちと行動を共にして、喜んだり、私たちが罪を犯せば私たちのことで嘆くのです。(エレミアは)大地が、そこに住む人々のせいで嘆く、と言っています。彼は天使を、この大地と同名異義的に[7]大地と言ったのです。実際、「手で作られたものは呪われよ、それを作った者は呪われよ[8]」と言われていまが、それは、魂のない物が呪われよと言っているのではありません。むしろ魂のない彫像に鎮座して、この像と同じ名前で呼ばれるものが呪われよと言われているのです[9]。このことと同じように私は、大地の管理を任された天使が大地と呼ばれ、水の管理を任された天使が水と呼ばれていると言いたいと思います。こう言われている通りであります。「神よ、水はあなたを見た。水はあなたを見て畏れた。深淵は水の大きなとどろきに心騒がせた。雲は声を上げた。なぜならあなたの矢が(空気を)貫いたからだ[10]」と。



[1] Jr.12,4.

[2] auvto. to. stoicei/on

[3] Cf.Ap.16,5.

[4] Jr.12,4.

[5] Cf. Alibinos, Epitome XV,7;  Athénagore, Leg.10; Origène, Hom.Jos.XXII,3;C.Celse VIII,31.32.

[6] Cf. De princ.I,7,2-5; II,9,7; De prat.7,1; C.Celse V,10(SC 147, p.39); V,11(p.41); Com.Jn.I,17(17),§98; Com.Mt.XIII,20(GCS 40,p.235,22).

[7] o`mwnu,mwj

[8] Sg.14,8.

[9] Cf.C.Celse VII,64,11-12 (SC 150, p.164).

[10] Ps.67,17-18(LXX).

 

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