6 (預言者エレミアは)、自分の腰に「麻の帯」を結びつけていますが[1]、何のためでしょう。それは、(神の)民が、いわば神の避難所[2]になっていることを示すためです。民は、神を非難しようとする人たちに対して立ち上がり、神を盾で護り、神に関する事柄において何かしら馬鹿げたことが言われるのを許しません。ところが私たちが罪を犯すと、預言者(エレミア)はその腰帯を外し、罰としてそれをユーフラテス川に投げ、そこで腐らせるように、罪を犯した者は神の「腰」から離され、投げ出され、ユーフラテス川に、メソポタミアの川に投げ込まれるのです。そこにはイスラエルの敵対者であるアッシリア人たちやバビロニア人たちがいます[3]。そしてそこでその罪人は、腐敗するのです。
川は実にたくさんありましたが、預言者(エレミア)は、ユダヤからユーフラテス川に遣わされ、麻の腰帯を身につけて、それをそちらに持っていきました。しかしなぜそれは「麻の」帯なのでしょうか[4]。それは麻が、大地にその誕生を持っているからです。麻は、大地に生える植物です[5]。そしてそれは栽培された後、梳かれ、洗浄され、磨かれて、多くの手間暇をかけて作られ、腰帯やその他の物になるのです。このように私たちも皆、神の腰帯と同じように誕生を持ち、大地からの誕生を得ています。ですから、私たちが梳かれ、洗浄されて、大地の色を捨てるには、私たちは多くの準備を必要とします。実際、麻の色は、誕生の時と加工された後とでは、異なるのです。麻の色は、誕生したときには黒っぽいですが、加工後になると、より輝いたものになります。生成の内にある私たちの場合にも、同じようなことが起こります。私たちは、信仰を持ち始めたときには、色黒でした。それゆえ『雅歌』の元には、次のようなことが言われているます。「私は黒いけれども美しい[6]」。また私たちは、(信仰の) 元には、魂の点でエチオピア人たちに似ていました。しかし私たちは、洗い清められ、「白く輝きながら上ってくるあの乙女は誰[7]」と言われているように、いっそう輝くものになり、「清く輝く亜麻布[8]」になるのです。そして私たちは、神に結びつけられるにふさわしい者になったとき、神の腰帯に織り上げられていくのです。神は、私たちをお見捨てになりません。神は、最初の民、「ユダのすべての家」と「イスラエルの(すべての)家[9]」をお見捨てになりました。彼らはもはや役立たなくなってしまったのです。神はもはや、彼らを(腰に帯のように)締めようとはなさいません。彼らの代わりに神は、私たちを(その腰に)締めてくださったのです。実際、神は、腰帯を捨てても、裸のままでいることはありません。神は、ご自分のためにまた別の腰帯を織りなしたのです。この腰帯とは、諸国の民からなる教会です。教会は、次のことを知っておくべきです。「神が最初の人たちを惜しまなかったとすれば、なおのこと罪を犯した教会を惜しむことはないであろう[10]」ということ。そのときの教会は、神の腰にふさわしいものではないのです。しかし「主に結ばれた者は」、キリスト・イエスにおいて「(主と)一つの霊になります[11]」。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[12]」。
[1]
Cf.Jr.13,1.11.
[2]
ske,ph
[3]
Cf.Hom.Jr.I,3.
[4]
Jr.13,1.
[5]
Hom.Lv.IV,6 (GCS 29,p.324,12).
[6]
Ct.1,5.
[7]
Ct.8,5.
[8]
Cf.Ap.15,6.
[9]
Jr.13,11.
[10]
Cf.Rm.11,21.24.
[11]
1 Co.6,17.
[12]
1 P.4,11.