第12講話

「お前は、民に言いなさい。『イスラエルの神、主はこう言われる。すべての革袋を満たしなさい』」から、「お前たちの目は涙を流す。なぜなら、主の群が押しつぶされたからだ」まで。


 

 

 預言者(エレミア)が神によって語るように命じられた言葉は、神にふさわしいものでなければなりません[1]。しかし、もしもわたくしたちが文字(通りの意味に)留まったままであれば、その言葉は神にふさわしいものでなくなってしまい、この文字(通りの言葉)を聴いた別の人は、これらの文字は「愚かさ」についてのものだと言うかもしれません。これは、この世の生命だけに生きる人[2]の言うせりふです。実際、「この世の生命だけに生きる人間は、神の霊に属することを受け入れません。神の霊に属することは、かれにとって愚かなことなのです[3]」。では、(聖書の)言葉が何を言っているかご覧ください。「そしてお前は、この民に言え。『イスラエルの神、主はこう言われる』  <イスラエルの神、主が言われることは>イスラエルの神、主にふさわしいものでなければなりません  『すべての革袋をぶどう酒で満たしなさい』と。そしてかれらはあなたに言うだろう。『われわれが、すべての革袋はぶどう酒で満たされるべきだというのを知らないほど、無知なのか』と[4]」。もしもこう応える人々が、言われた言葉(の文字通りの意味)に立脚してこう応え、「すべての革袋はぶどう酒で満たされるべきだ」ということぐらい知っていると言うなら、かれらは思い違いをしているのです。なぜなら、必ずしも「すべての革袋が、ぶどう酒で満たされるべきだ」とはかぎらないからです。実際、油で満たされる革袋もあれば、他の液体で満たされるものもあり、また空ままの革袋もあるのです。したがってかれらは、思い違いをしています。「すべての革袋がぶどう酒で満たされるべきだ」とはかぎらないのです。そして民は応えて言います。「われわれが、すべての革袋はぶどう酒で満たされるべきだというのを知らないほど、無知なのか」と。これについての解釈は、わたしたちの力の及ぶかぎりでは、次のようになるでしょう。もしもわたしたちは、ぶどう酒のさまざまな違いと、さまざまのぶどう酒ついて(聖書に)言われたこととを考えるなら、わたしたちは、さまざまなぶどう酒に従いながら革袋に関して言われる、「すべての革袋はぶどう酒で満たされるべきだ」という言葉が真実だということがわかるでしょう。実際、もしも、諸々の革袋の中に、こうわたしたちが命名してよければ、善良な革袋のようなものがあるとすれば、それはそれ自身の善良さ[5]に即したぶどう酒で満たされるはずです。他方もしも、(他の)諸々の革袋に比べて、しかも(他の)諸々革袋と選り分けられるかぎりで、下劣な革袋があるとすれば、それはそれ自身の下劣さ[6]に従って、下劣なぶどう酒で満たされねばならないでしょう。

では、さまざまなぶどう酒について、どのようなことが聖書から読みとれるでしょうか。悪いぶどう酒について次のようなことが書かれております。「かれらのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から来る。かれらの小枝はゴモラから。かれらのぶどうの胆汁の房。その実はい。かれらのぶどう酒は、竜の毒。蛇の猛毒[7]」。善いぶどう酒については、「あなたのぶどう酒のは、わたしを酔わせる最上の杯[8]」とあります。さらに知恵は、自分のは鉢に(人々を)招いて、こう言っております。「あなたがたは来て、わたしのパンを食べ、わたしの調合したぶどう酒を飲みなさい[9]」。したがって、ソドムからのぶどう酒と、知恵が調合するぶどう酒とがあるのです。また(こう書かれております)、「(わたしの)愛する人には、よく肥えた土地のにぶどうの木が生える[10]」と。そのぶどうの木は、神によって植えられたもので、ソレクのぶどうの木と呼ばれています。なぜならそれは、選り抜きの素晴らしいぶどうの木だからであります。さらに聖書によりますと、神がたたくエジプトの人たちのぶどうの木もあります。こう書かれています。「神はによって、かれらのぶどうの木を打ち、によってかれらのの木を打たれた[11]」と。



[1] Cf.Philocalie I,16 (p.23 Robinson).

[2] yuciko,j

[3] 1 Co.2,14.

[4] Jr.13,12.

[5] avgaqo,thj

[6] mocqhri,a

[7] Dt.32,32-33.

[8] Ps.22,5.

[9] Pr.9,5.

[10] Is.5,1.

[11] Ps.77,47.