11  さて、「お前たちは、わたしたちの神なる主に栄光を帰せ[1]」と言われております。わたしたちは、わたしたちの神なる主にどのように栄光を帰すのでしょうか。わたしは、音声や言葉で、わたしたちの神なる主に栄光を帰そうとするのではありません。神なる主に栄光を帰す人は、行いによって神に栄光を帰すのです。あなたは、節制によって神に栄光を帰さなければなりません。正義によって、善行によって神に栄光を帰さなければなりません。あなたは、勇気と忍耐によって神に栄光を帰してください。善行と敬神そしてその他の諸々の徳によって神に栄光を帰してください。しかしもしも事情がこのとおりで、人が神に栄光を帰すやり方がこのようなものであるとすれば、わたしがこれと反対のことを言っても、どうかあなたがたは、わたしが冒涜を働いていると思わないでください。わたしは、聖書からこの(反対の)ことの証言を引用してみましょう。すなわち、節度ある人は神に栄光を帰しますが、不節制な人は、神を侮辱するのです。かれは、ネブカドネザルのように神の神殿を覆し[2]、「神の神殿を滅ぼし[3]」、「律法を破ることで神を侮辱している[4]」のです。この(侮辱するという)言葉そのものは、まさに使徒のものなのです。このようなわけで罪人は、神に不名誉を帰し、摂理に関する事柄について尋ね、摂理が存在するのかどうか疑問に思う人もいるのではないかと問いますが、しかしこれは悪徳以外の何ものでもありません。あなたはこのような悪徳を取り除かねばなりません。そして摂理に躓かないようにしなければなりません。摂理に躓く人たちは、本末転倒にも次のように言っているのです。なぜ、「姦通する者」がこれほど多いのか。なぜ、「男娼[5]」がこんなにたくさんいるのか。なぜ、神を否定する者がこんなにいるのか。なぜ、不敬虔な者がこんなにたくさんいるのか、と。摂理に対して不名誉をもたらし、神に躓きを帰し、宇宙の造り主に冒涜を与える人たちが、罪を犯している人々なのです。諸々の罪によって、神の栄光に反することを行っている人たちは、神に栄光を帰してはいないのです。



[1] Jr.13,16.

[2] Cf.Jr.52,13.

[3] Cf.1 Co.3,17.

[4] Cf.Rm.2,23.

[5] 1 Co.6,9.

 

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