ですからどうか、すべての人たちが、今、象徴的にぶどう酒を(革袋のように)えることができるのだとお考えください。わたしはその点で、人間たちを革袋と呼びたいと思います。そして次のように申し上げます。下劣な人は、「ソドムのぶどうから造られた」ぶどう酒に満たされ、エジプトのぶどう酒とイスラエルの敵どものぶどう酒とに満たされています。他方、聖なる有益な人は、ソレクのぶどうの木か造られたぶどう酒と、次のように書かれているぶどう酒とに満たされているのです。「あなたのぶどう酒のは、わたしを酔わせる最上の杯」と。また聖なる人は、知恵の調合するぶどう酒に満たされています。

「すべての革袋はぶどう酒に満たされるべきだ」という言葉をよく理解するには、どうか以上のことを、徳と悪徳に関して理解してください。しかし悪徳と徳の結末を、すなわち悪徳による刑罰と、徳による祝福と約束とを考察しなければならないなら、わたしは、聖書の言葉から、どのようして刑罰と祝福とが、それぞれぶどう酒と言われているのかを示してみたいと思います。「調合されていないぶどう酒の杯を取り、わたしがおまえを遣わすすべての民に飲ませなさい」と、エレミアは言っています。そしてかれは、こう付け加えています。「そしてかれらは、飲み、吐き出し、取り乱し、倒れるだろう[1]」と。このようにエレミアは、ここで、諸々の刑罰を、調合されていないぶどう酒と名づけています。調合されていないぶどう酒、すなわち混じりけのない刑罰に値する人たちは、このようなぶどう酒を飲むのです。しかし他方で、不純で混じりけのある刑罰を飲む人たちもいます。実際、「主のみ手には、不純物に満ちた未調合のぶどう酒の杯がある。主は、それを杯から杯へとがれた。しかしそのぶどう酒のはなくならなかった。地のすべての罪人はそれを飲む[2]」とあります。もしもあなたが、義人たちの飲む「祝福の杯[3]」をお考えになりたいのであれば、知恵の杯だけで充分でしょう。知恵はこの杯についてこう言っております。「わたしがあなたがたのために調合したぶどう酒を飲みなさい[4]」。しかしどうか、救い主が過越(の食事)のために、きれいに飾られ「準備の整った二階の大広間[5]」にお上りになり、弟子たちとともに祭りを祝われ、かれらに杯を渡されたこともお考えください。この杯についても、救い主が調合されたとは書かれておりません。なぜならイエスは、弟子たちを喜ばせることお望みになり、かれらを混じりけのないぶどう酒で喜ばせるからです。イエスはこう言っておられます。「あなたがたは取って[6]、飲みなさい[7]。これは、わたしの血。罪の赦しのために[8]あなたがたのために流される[9]わたしの血[10]。あなたがたは、これを飲むたびに、わたしの記念としてこれを行いなさい[11]」と[12]。そしてこう言葉を継いでおられます。「わたしはよくよくあなたがたに言っておく。神の国であなたたちと一緒に新たに飲むその日まで、わたしは今後、ぶどう酒を飲まないであろう[13]」。あなたは、「新しい契約の[14]」杯が約束であることがおわかり頂けるかと思います。あなたは、らしめが未調合のぶどう酒であり、また別の種類の懲らしめが調合されたぶどう酒であることがおわかり頂けるかと思います。したがって各々の人は、悪い行いに混ぜられた立派な行いの値打ちに応じて調合される飲み物を飲むことになるのです。どうかあなたは、敬神とはまったく無縁であり決して自分自身を気づかおうとせず、でたらめに生活している人々が、わたしたちがエレミアから関係する言葉を引用した未調合のぶどう酒を飲むとお考えください。他方、完全に背教してはおらず罪を犯してはいませんが、「新しい契約の」杯にふさわしくなく、あるときは立派な<行いを>し、またあるときはその反対の<行いを>する人々は、「混じりけのない調合された[15]」ぶどう酒を飲むと、あなたはお考えください。

さて、神は、「(混じりけのない調合されたぶどう酒を)この()から別の()に注がれました[16]」。わたくしは、「(主は)、この杯から別の杯に注がれた。しかしそのはなくならなかった[17]」という言葉に二つの杯を見ます。どうかあなたは、あなたのよき業の杯が神のみ手の一方にあるとお考えください。そしてもしもわたくしがより大胆に語ることをお望みになりますなら、あなたのよき業の杯は神の右手にあるとしてください。そしてあなたの罪の杯が神の左手にあるとしてください。すると、あなたが罪のゆえにらしめを受けなければならないとした場合、あなたには善き業もあるわけですから、「混じりけのない調合されたぶどう酒に満ちた杯が主のみ手にあり、主は、それを一方の杯から他方の杯に」、すなわち左手の杯から右手の杯に「注がれた」のです。実際、あなたは、善き業だけを行ってきたのではないのですから、善き業の杯だけを飲むことはできません。またあなたには何かしら善き業もあるのですから、あなたは罪の杯だけを飲むのではないのです。それで「(主は混じりけのない調合されたぶどう酒を)一方の杯から他方の杯に注がれた」のです。あなたの業に応じて、懲らしめの杯があなたにとって水っぽいものとなるため、あるいはより苦く嫌なものとなるために、怒りとらしめがあなたに混ぜられます。実際、先にわたしが申し上げましたように、善い業に混ぜられる罪に応じて、それぞれの罪に与えられる怒りの杯からの<苦痛>が、らげられたり和らげられなかったりするのです。これに対して、もしもあなたが一点の非の打ち所もなく善良で立派な人物であれば、あなたは、「わたしは救いの杯を受けるでしょう。そしてわたしは主の名を呼び求めます[18]」と言うはずです。

ですから、善いものであれ悪いものであれ「すべての革袋が、ぶどう酒が満たされます[19]」。革袋の適性に従って、すなわち、ここで言われている革袋の特質に従ってぶどう酒がぎ込まれることでしょう。オリーブ油が革袋に注ぎ込まれるのでもなく、他の何らかの液体が注ぎ込まれるのでもありません。すべての革袋がぶどう酒で満たされねばならないのです。



[1] Jr.32,15-16.

[2] Ps.74,9.

[3] Cf.1 Co.10,16.

[4] Pr.9,5.

[5] Mc.14,15.

[6] Cf.Mt.26,26.

[7] Cf.Mt.26,27.

[8] Mt.26,28.

[9] Lc.22,20.

[10] Cf.Mt.26,28.

[11] 1 Co.11,25.

[12] La,bete( pi,ete( tou/to, mou, evsti to. ai-ma( to. u`pe.r u`mw/n evkcuno,menon eivj a;fesin a`martiw/n~ tou/to poiei/te( o`sa,kij eva.n pi,nhte( eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)

[13] Mt.26,29.

[14] Cf.1 Co.11,25.

[15] Ps.74,9.

[16] Ps.74,9.

[17] Ps.74,9.

[18] Ps.115,4.

[19] Jr.13,12.

 

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