わたしは、み言葉が与えてくださった道をすでに得た文字(通りの意味)から、平和を見るに既に相応しいものとなったそれぞれの魂に移りたいと思います[1]。たしかに、あなたがたは、神的な教えを学習すると、エルサレムになるのです。エルサレムはかつてエブスでした。<歴史は、その地の名前はエブスでしたが>、後で名前を変え、エルサレムになった<と言っております>[2]。ヘブライ人の子供たちは[3]、エブス(という名)は「踏み付けられた」と解釈されると言っています。したがって、エブス、すなわちもろもろの敵対する霊どもによって踏み付けられた魂が変えられて、エルサレム、すなわち平和の眺望[4]になるのです。ですからもしもあなたが、エブスから変わってエルサレムになったのに、罪を犯し、このエルサレムと同じように「神の子を踏み付け、新しい契約の普遍的な血をないがしろにし」、重い罪に陥ったなら、あなたについても言われるでしょう。「エルサレムよ、誰がお前を惜しむのか」。「そして誰がお前のために顔を曇らせるのか」、もしもお前がイエスを裏切るような人物になったとすれば、と。わたしたちの一人ひとりが罪を犯し、しかも重い罪を犯したら、それはイエスに罪を犯したことになるのです。しかしもしもわたしたちの一人ひとりが背教者となった場合には、さらに、エルサレムがイエスに身体的に行ったことをイエスに対して霊的に行うことになるのです。

「あなたがたは、神の子を踏み付け、神の子が聖とされた契約の血をないがしろにし、恵みの霊を侮辱する人がどれほど悲惨な報いを受けるに値するか考えたことがありますか[5]」。もしもあなたが神の子を踏み付け、恵みの霊を侮辱するなら、「誰があなたを惜しむでしょうか。誰があなたのために顔を曇らせるでしょうか。誰があなたの平安のを願うために戻ってくるでしょうか[6]」。罪人(であるあなた)の魂は、あなたのために平和を願ってくださった神の子ご自身を裏切ったのです。誰が再び平和のために立ち戻り、励ましを与えることができるでしょうか。ですから、「ひとたび光に照らされた人たちが天来の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の良いみ言葉と来るべき代のもろもろの力とを味わった後に、罪を犯したならば、その人たちは自分たちのうちで神の子を十字架に付け、さらし者にしてしまったのですから、その人たちを回心のために再び改めることはできない[7]」ということを、わたしたちは知ったのですから、私たちについても「エルサレムよ、誰がお前を惜しむのか。誰がお前のために顔を曇らせるのか。誰がお前の平和を願って戻るのか」と言われないように、すべてのことを行いましょう。



[1] Cf.Com.Jn.X,23(16),§132.

[2] Cf.Jos.18,28.

[3] Cf. Hom.Gn.XII,4:ut aiunt ui hebraea nomina interpretantur; Hom.Ex.V,2:tradunt interpretes nominum.

[4] {Orasij eivrh,nhj

[5] He.10,29.

[6] Jr.15,5.

[7] He.6,4-6.

 

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