第14講話

「ああ、わたしは禍だ。わが母よ」から、「それゆえ主は言われる、もしもお前が立ち返るなら、わたしはお前を再び立てる」まで。


 

  医術の意向に従って病人の傍らに行き、病人の治療に常に献身する身体の医者たちは、「ぞっとするようなありさまを目にし、不快なものに触れ、<そして>他人の不幸な境遇を目の当たりにし、自分の苦痛を収穫します[1]」。かれら医者たちの生活はいつも決して穏やかなものではありません。実際、かれらは健康な人たちと決して一緒にいないのです。かれらはいつも、傷を負った人たち、潰瘍のある人たち、膿や熱やさまざまな病に満ちた人たちと一緒にいるのです。そしてもしもある人が医術を自負するのであれば、その人がいまわたしたちが述べたような人たちと一緒にいる場合、かれは、自分が選び取った技術の目的を嫌がってはなりませんし、また、怠ってもならないのです。

いまわたくしが前置きとしてこのことを述べましたのは、預言者たちもまた、魂の医者のようだからであり、癒しを必要としている人たちのところでいつも時を過ごしているからであります。たしかに「医者を必要とするのは、健康な人たちではなく、病気の人たちなのです[2]」。そして医者の人たちが御し難い病人から受ける苦しみを、預言者たちと教師たちは、癒されることを望まない者たちから受けることになるのです。実際、かれらが嫌われるのは、かれらが病人たちの欲求が望むものとは違うことを指示するからであれ、病人のくせにその病気にふさわしいものを取ろうとしない病人たちに対して楽しみに耽ったり楽しんだりすること禁じるからです。ですから病人たちのうちで御し難い者たちは医者を避け、しばしば医者を罵ったり侮辱したり、はては敵がその敵に対して行うようなありとあらゆることをするのです。かれらは、医者がその友として近づいてくるのがわからず、治療の苦痛や、医者の執刀から来る苦痛ばかりを見て、苦痛の後に来る結果を見ないのです。そして医者を単なる苦痛だけの生みの親と見なして嫌い、その苦痛が手術を受ける者たちに健康をもたらすものであることがわからないのです。



[1] Cf.Hippocrate, Peri. fusw/n I, 569 K; C.Celse IV, 15.

[2] Lc.5,31.

 

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