10  わたしたちは、み言葉の許しの下に、「わたしの力は、わたしを呪う者たちのなかで衰えてしまいました」という言葉に関して述べたこと以上に明瞭なことを、他に言うことができるかどうか考えてみることにいたしましょう。「かれは、すべての人を照らすためにこの世に来た真の光であった[1]」と言われています。<神の子は、「すべての人を照らすためにこの世に来た真の光です>。そして理性的なものは何でも、真の光に与ります。ところですべての人間は理性的です。したがってすべての人がみ言葉に与ります[2]。しかし、ある人たちのなかではみ言葉の力は増え、ある人たちのなかでは衰えるのです。もしもあなたが情念に囚われた罪深い魂を見るなら、あなたはそこに、み言葉の力が弱められているのを見るでしょう。これに対してもしもあなたが善良で正しい魂を見ますなら、あなたは、み言葉の力が日毎に実を結ぶのを見るでしょう。そしてあなたは、イエスについて言われたことを、正しい人たち当てはめるでしょう。すなわち、「イエスは、知恵においても年齢においても、そして恵みにおいても、神と人々の前で進歩した[3]」という言葉は、イエスご自身についてだけ言われたのではありません。そればかりか、知恵と年齢と恵みとにおける進歩を受け入れた人たち一人ひとりのうちでも、「イエスは、知恵と年齢と恵みにおいて、神と人々の前で」進歩なさるのです。

ですから、「母よ、わたしは禍だ」等々と言う人のなかにおられる神のおん子であるみ言葉が、「わたしの力は、わたしの呪う者たちのなかで衰えた[4]」と言ったのです。み言葉を呪う人がいれば、その人は、み言葉を呪い、イエスの教えを非難したがゆえに、直ちに罰を受けます。イエスのみ力はそのような人のうちで衰え、み言葉の力はその人のうちにはありません。しかしそれとは反対に、もしもあなたがイエスを祝福し、イエスを受け入れるなら、<かれの>力は、かれを呪う者たちのなかで被ったのとは反対のものを受けるのです。前者の場合には、イエスのみ力は、呪う者たちのなかで衰えてしまいましたが、後者の場合には、祝福する人たちのなかで増大するのです。



[1] Jn.1,9.

[2] Cf.De princ.I.3,6(GCS 22,56,21s).

[3] Lc.2,52.

[4] Jr.15,10.

 

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