12 これらの言葉に続いて神は、預言者によってあるいはキリストによって非難された民に向かって答え、次のような言葉をかれらに語ります。「お前の力は鉄であり、青銅の覆い[1]」、硬くて曲げられず打ち延ばせない力。<「お前の力は鉄であり、青銅の覆い」>、お前の力は、いわば切断し切り分ける力であり、善のためにない力。

「わたしはお前の宝を、お前のすべての罪の代償として、略奪に委ねる[2]」。神は罪人たちのどのような「宝を略奪に委ねる」のでしょうか。そして神は、それらの宝を「すべての罪の代償として」委ねるのでしょうか。そもそもそれらの宝は、かれらが自分たちのために地上に蓄えた宝なのでしょうか。実際わたしたちが福音書から教えられたように、人間たちの一人ひとりは、もしも卑しい人であれば「地上に」宝を蓄え、洗練された人であれば「天に」宝を蓄えるのです[3]。また神は、わたしはお前のもろもろの罪のゆえに、お前の宝を略奪に委ねるつもりだと、あの民に語りました。では、あの民のどのような宝が略奪に委ねられたのでしょうか。ご覧ください。その宝の一つはエレミアです。もう一つの宝はイザヤです。またモーセも一つの宝でした。神は、これらの宝をあの民から取り上げ、「神の国はお前たちから取り去られ、神の国の実を結ぶ異邦の民に与えられるであろう[4]」とおっしゃるキリストをとおして、わたしたちに与えてくださいました。

ですから「わたしは、お前の罪のゆえにお前の宝を略奪に委ねる[5]」のです。そして神は、あの民のそれらの宝をわたしたちに与えてくださいました。なぜなら「最初の」民が「神のもろもろの託宣を信じました[6]」が、かれらに次いでわたしたちがそれらの託宣を信じたからです。神のもろもろの託宣は、あの人たちから「取り去られ」、わたしたちに「与えられた」のです。わたしたちは、「神の国がお前たちから取り去られ、神の国の実を結ぶ異邦の民に与えられるであろう[7]」という言葉が、救い主によって語られ、そして成就したと言いました。それはかれらから聖書が取り去られたということではありません。かれらはもはや、律法や預言書を、それらに含まれる意味を観想しないがゆえに持っていないからです。たしかにかれらは聖書を持っています。しかしどのようにして神の国が、かれらから取り去られたのでしょうか。聖書の意味がかれらから取り去られたのです。かれらのもとには律法や預言書の解釈がもはや生かされていません。かれらは読みはしますが、理解しないのです。こうして次の言葉が救い主の到来によって成就しました。「わたしはあの民に言った。お前たちは耳を傾けて聞くが、悟らない。お前たちは目を凝らして見るが、見えない。なぜならこの民の心は鈍くなったからだ[8]」。イザヤによって語られたことも成就しました。すなわち、「主はユダヤとエルサレムから、力ある男と力ある女、巨人、戦人、判事、預言者、先見者、有能な建築家、聡明な聞き手を取り去る[9]」。神はそれらすべてのものを、あの人たちから取り去り、諸国の民の出身であるわたしたちに与えてくださったのです――もしもわたしたちがそれらを受け取るとすれば。

   以上は、「そしてわたしはお前の宝を略奪に渡そう」という言葉に関して述べてみたものです。「お前のすべての罪と引き換えに、お前の領地のあらゆるところで[10]」という言葉は、次のことを言っていっているかのようです。すなわち、お前の領地のすべてに行き渡る罪のゆえにと。なぜならあの民には、罪に満たされない土地はまったくなかったからです。ではどうしてかれらの全国土は、キリストが正義であるとするなら、かれらのできる範囲でその正義を殺したとき、罪に満たされなかったのでしょうか。どうしてかれらの全国土は、キリストが知恵であるとするなら、その知恵を殺したとき罪に満たされなかったのでしょうか。どうしてかれらの全国土は、キリストが真理であるとするなら、その真理を殺害したとき、罪に満たされなかったのでしょうか。それはかれらが、神の子を死罪に処したことによって、それらすべてを投げ捨て、失ってしまったからです。わたしの主イエスは、死者のうちからよみがえられたとき、ご自分を殺した人たちにはもはや表れませんでした。たしかにわたしたちは、歴史のなかでかれがご自分を殺した人たちに表れたのを知りません。ご自分を信じた人たちに対してだけ、死者のうちから復活されたイエスは姿を現されたのです。



[1] Jr.15,12.

[2] Jr.15,13.

[3] Mt.6,19-20.

[4] Mt.21,43.

[5] Jr.15,13.

[6] Rm.3,2.

[7] Mt.21,43.

[8] Is.6.9-10 (= Mt.13,14-15).

[9] Is.3,1-3.

[10] Jr.15,13.

 

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