15 「たしかにあなたのみ言葉は、わたしの歓喜の源となるでしょう[1]」とあります。それは今ではありません。将来なのです。実際今のところあなたのみ言葉は、投獄や裁き、騒動や中傷、労苦の源となっていますが、これらのものの果ては、喜びとなるのです。「たしかにあなたのみ言葉は、わたしの歓喜の源、わたしの心の喜びの源となるでしょう。なぜなら全能の主よ、あなたのみ名がわたしに対して呼ばわれたからです[2]」。またキリストが語ったときも、おん父のみ名がかれに対して呼ばわれました。

「わたしは遊び戯れるかれらの集いの中に座りませんでした[3]」。もしも預言者が熱心な者たちの集いではなく、遊び戯れる者たちの集いを目にしたとすれば、かれは、遊び戯れる者たちの集いに馳せ参じるどころか、それに加わるのを避けたのです。ですからあなたは、遊び戯れる者たちの集いと熱心な者たちの集いの違いを知らなければなりません。この(熱心な者たちの)集いは熱心な集いで、熱心さに値するまさにすべてのことを熱心に行います。それは、諺にも言われているとおりです。すなわち、教えに熱心であれば、生活も熱心であると。そしてその集いは、遊び戯れる者たちの集いではまったくなく、熱心な者たちの集いなのです。しかしこの集いが必要なことに関わる熱心さ捨て去り、この代の遊興や悪徳に由来する遊興に耽るとき、それは、遊び戯れる者たちの集いと化すのです。ですからこの預言者は言っています。「わたしは遊び戯れるかれらの集いの中に座りませんでした。むしろわたしは、あなたの<み手の>前で恐れを抱きました[4]」。二つの選択肢を前にして、すなわち遊び戯れる者たちの間に座り、神であるあなたを立腹させ、あなたを喜ばせないか、あるいは、遊び戯れる者たちの集いから立ち去り、あなたの好むことを行うという二つの選択肢を前にして、わたしは、あなたの意に反することを行って、あなたの至福の敵になるよりも、遊び戯れる者たちの集いから立ちあがり、あなたの友となることを選びました[5]

「わたしは遊び戯れるかれらの集いの中に座りませんでした。むしろわたしは、あなたの<み手の>前で恐れを抱きました[6]」。わたしたちの救い主もまた、「遊び戯れるかれらの集いの中に」座りませんでした。むしろかれは、かれらから立ち去りました。救い主が遊び戯れる者たちの集いから立ち去ったしるしは、かれの言われた言葉にあります。「あなたがたの家は、荒れ果てたままあなたがたに残されるであろう[7]」と。たしかに神のみ言葉はユダヤ人たちの集いを棄てて、他の集い、すなわち諸国の民からなる教会をご自分のためにお作りなりました。



[1] Jr.15,16.

[2] Jr.15,16.

[3] Jr.15,17.

[4] Jr.15,17.

[5] Cf.Hom.Jr.XV,1.

[6] Jr.15,17.

[7] Mt.23,38.

 

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