18  「わたしの傷は重い。どうやってわたしは癒されるのでしょうか[1]」。わたしに勝る者たちは、わたしを打ちます。そしてわたしの傷は重い。自分自身の十字架を預言する場合であれ――たしかに十字架は、十字架に付ける者たち次第であるゆえに、重いものです――、あるいは(キリストが)そこにおいて重い傷を受けるすべての義人たちに<ついて預言する場合であれ>、また預言者についてあなたがこのことを聞く場合であれ――たしかに(キリスト)ご自身が、預言(者の書)に書き記された苦しみを味わったのです――、とにかくいずれにしても、次のように言う言葉に関しては、このような意味で受け取れるのです。「わたしの傷は重い」と。「どうやってわたしは癒されるのでしょうか」。(救い主が)「どうやってわたしは癒されるのでしょうか」(と言うのなら、それは)、重い傷の後に、死者たちの内から復活することを預言しているのです。義人について理解するとすれば、(それは)重い傷の跡に再び癒しがやって来る(ことを意味しているのです)

(この傷は)わたしにとって信用の置けない<偽りの水>のようになってしまいました[2]」。たしかに傷は留まらずに、過ぎ去っていきます。

「それゆえ主は、こう言われる。もしもお前が立ち返るなら、わたしもお前を回復させよう、と[3]」。この言葉も、神がご自分に立ち返るように招く人たちのそれぞれに言われています。しかし「わたしはお前を回復させよう[4]」この言葉には、神秘が示されているとわたしには思えます。どんな人でも、自分がかつて一度もいたことのない場所に回復されることはありません。かえって回復は、(かつていた)固有な場所への回復なのです。たとえば、わたしの手足が脱臼したら、医者は、脱臼した手足を回復させようと努力します。また誰かが、正当な理由にせよ不当な理由にせよ、祖国からはなれているとき、法律に従って祖国に再びいる権限を得た場合には、その人は、自分自身の祖国に回復されたことになります。また、自分自身の隊列から投げ出されて<また>そこに復帰した兵隊についても、どうか同じことをご理解ください。ですから(神は)、離反したわたしたちに、もしもわたしたちが立ち返るなら、わたしたちを立ち返らせようと言っているのです。実際、約束の目標とはこのうなものなのです。それは『使徒たちの言行録』のなかにも書き記されているとおりです。こうあります。「預言者たちの時代から、ご自分の聖なる人たちの口をとおして」、イエス・キリストにおいて、「神がお語りになった万物の復興のときまで[5]」と。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Jl.15,18.

[2] Jl.15,18.

[3] Jl.15,19.

[4] Cf. Hom.Lc.XXXIX, 3; Com.Jn. I, 16, § 91.

[5] Ac.3,21: a;cri cro,nwn avpokatasta,sewj pa,ntwn w-n evla,lhsen o~ qeo.j dia. sto,matoj tw/n auvtou avpaiw/noj profhtw/n

[6] 1 P.4,11.

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