まず、「わたしは禍だ」という言葉についてお話しなければなりません。なぜならそれは不吉だからです。まさに他の人たちを不幸だとお思いになる救い主が「わたしは禍だ」という言葉を言うことができるのでしょうか。わたしたちは、救い主以外の他の誰にも当てはまらない公認された言葉を使って、どのようにして救い主がエルサレムを嘆いたの示してみることにしましょう。ところで「わたしは禍だ[1]」という言葉は、嘆いている人の声です。そして福音には、次のような言葉があります。(イエス)エルサレムをご覧になって「エルサレムを嘆きました[2]」。そしてこう言われました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前のために遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。わたしは何度お前の子らを集めようとしたことか[3]」、等々と。明らかに次の言葉のなかでも、同じことが救い主によって言われています。「わたしは禍だ。わたしは、刈り入れのときに藁を集める人のようになった。わたしは、摘み取りのときぶどうの残りを集める人のようになった。初成りの食事のための穂がないからだ。わが魂よ、わたしは禍だ。敬虔な人が大地から取り去られたから。そして人々のなかに直き人はいない。すべての人が流した血の科で裁かれる[4]」。実際、救い主は収穫するために、「刈り入れのときに藁を集める人のように」やってきました。そして多くの罪人たちを見つけたので、「わたしは禍だ。わたしは刈り入れのときに藁を集める人のようになった」と言われたのです。救い主は、人々のなかで生命の実りを摘み取るために来られました。そして多くの罪をわたしたちのなかに見出しました。それで救い主は、「わたしは摘み取りのときにぶどうの残りを集める人のようになった。初成りの食事のための穂がないからだ」と言われたのです。救い主はまた別の個所でも、これと同じようなことをおん父に向けて言っております。「わたしの血にどのような利益があるのでしょうか。わたしは腐敗のなかに下りてきたというのに[5]」と。これほどのことをしても、どれほどの利益が人々にあるのでしょうか。かれらは、わたしがかれらのために流した血にふさわしいことを何かしたでしょうか。「<わたしの>血にどのような利益があるのでしょうか。わたしは腐敗のなかに下りてきたというのに」。わたしは、もろもろの天から下りてきました。わたしは、この大地に来ました。わたしはわたし自身を腐敗に委ねました。わたしは人間の身体を担いました[6]。これらのことにふさわしいことが、何かいったい人間たちの間で行われたのでしょうか。「わたしの血にどのような利益があるのでしょうか。わたしは腐敗のなかに下りてきたというのに。土塊(に過ぎない人間)があなたを告白するのでしょうか。土塊があなたの真を告げるのでしょうか」。

ですからここで救い主によって先ず最初に言われた言葉、すなわち「わたしは禍である。母よ、あなたはわたしをどのような男として生んだのですか」という言葉も、これと似たようなものなのです。ここで救い主は、神として「わたしは禍である。母よ」と言っているのではありません。救い主は、人間としてこれを言っているのです。それは、「わが魂よ、わたしは禍だ。なぜなら大地から敬虔な人が取り去られたから[7]」という預言の言葉についても同様であります。(救い主の)魂は、人間の魂でした。それでその魂は、まさに「思い乱れた[8]」のです。それでその魂は、まさに「悲嘆にくれた[9]」のです。しかし「元に神とともにあった[10]」み言葉が悲嘆にくれることはありませんでした。あのみ言葉が「わたしは禍だ」と言うことはおそらくできないでしょう。なんといってもみ言葉は、死を受け入れないからです[11]。むしろわたしたちが何度も証明しましたように、(み言葉がお取りになった)人間性がそれを受け入れたのです[12]



[1] Jr.15,10.

[2] Lc.19,41.

[3] Mt.23,37.

[4] Mi.7,1-2.

[5] Ps.29,10.

[6] Ps.29,10.

[7] Mi.7,1-2.

[8] Jn.12,27.

[9] Mt.26,10.

[10] Jn.1,2.

[11] Cf.Mt.26,38.

[12] Cf.De prin.I,2,1;Hom.Ez.I,5 (GCS 33,430,30); Com.Jn.I,28(30) § 192; XXVIII, 18(14) §§ 158-159; C.Celse IV,15 etc.

 

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