「あなたはどのような男としてわたしを生んだのですか。わたしは全地で裁かれ断罪される男となりました[1]」。どうかあなたは、あらゆる所で殉教者たちがそれぞれの教会ごとに裁判官たちの前に引き立てられ裁かれるのをご覧になってください。そうすればあなたは、どのようにしてイエス・キリストがそれぞれの殉教者たちのうちで裁かれるのかがおわかり頂けるでしょう[2]。イエス・キリストご自身が、「真理のために殉教する[3]」人たちのうちにあって裁かれるのです。そしてあなたは、イエスが次のように言っているのを見るとき、このことを納得して受け入れるでしょう。すなわちイエスは、あなたが捕らわれているとき、捕らわれていたのはあなたではなくイエスご自身である、あなたが飢えているとき飢えているのはあなたではなくて、イエスご自身が飢えているのだ、あなたが渇いているのではなくてイエスご自身が渇いているのだと言っているのです。「わたしが捕らわれていたとき、あなたがたはわたしのところに来た。わたしが飢えていたとき、あなたがたはわたしに食べ物を与えてくれた。わたしが渇いていたとき、あなたがたは<わたしに>の飲み物を与えてくれた[4]」。ですから、キリスト者裁かれても、それが自分自身の罪によってではなく、他ならぬキリスト者であるという理由によるものであるなら、裁かれるのはキリストなのです。ですからイエス・キリストが、「全地で」裁かれるのです。ですからまた、キリスト者が裁かれるたびに、キリストが裁かれる者となるのです。それは、これらの法廷においてだけではありません。キリスト者が偽りの中傷を浴びせられ、何らかのことで不当に非難されるときには[5]、キリストも不当に裁かれているのです。



[1] Jr.15,10.

[2] Cf. De martyrio, 36 (GCS 2,33,17s).

[3] Cf.Jn.18,37.

[4] Mt.25,36.

[5] オリゲネスの個人的な体験の暗示である。

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