「あなたはどのような男としてわたしを生んだのですか。わたしは全地で裁かれ断罪される男となりました[1]」。<さらに、かれがどのように「全地で」裁かれ断罪されるのかについて、以下のようにあなたは理解できるでしょう>。いったい誰が、キリスト者たちの教理を裁かないのでしょうか。諸国の民の誰が、その教理を単純な仕方ででもいいですから検討しないのでしょうか。ユダヤ人たちのうちの誰が、キリスト者たちに関する事柄を語らないのでしょうか。ギリシア人たちのうちの誰が。哲学者たちのうちの誰が。一般人たちのうちで誰が。あらゆるところでイエスが、裁かれ断罪されています。ある人たちによって断罪され、また他の人たちによって断罪されていません。断罪されなければ、イエスは受け入れられるようになります。「もしもあなたがかれのために戸を開くなら、かれはあなたのところに入ってきます[2]」。あなたはかれを信じています。しかしもしもあなたが、キリスト教についての話を聞いたのに、それを受け入れなければ、あなたは、イエスを断罪すること意外のことは行なっていないのです。あなたは、イエスが教えたみ言葉を信じなかったがゆえに、イエスに嘘吐き、人々を惑わす者、真理を語らない者としたことになるのです。

「あなたはどのような男としてわたしを生んだのですか。わたしは全地で裁かれ断罪される男となりました[3]」。まったく信じない人はみな、かれを裁きます。信じないことはありませんが、かれについて疑いを持つ人は、かれを断罪します。イエスは、人々の間で二つの苦しみを受けるのです。すなわちイエスは、信じない人たちによって裁かれ、二心の人たちによって断罪されるのです。もしもあなたが、「土の像」と捨てて、「天の像」を帯びるなら[4]、あなたは、かれを断罪する地にはなりません。またかれが断罪される地でもありません。あなたはもはや、かれを裁く地ではないのです。



[1] Jr.15,10.

[2] Cf.Ap.3,20.

[3] Jr.15,10.

[4] 1 Co.15,49.

 

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