「わたしの力は、わたしを呪う者たちのなかで衰えてしまいました[1]」。使徒は、救い主について次のように言っています。「かれは、弱さのゆえに十字架に付けられました[2]」と。また預言者は、これと似たようなことを次のように言っています。「主よ、誰がわたしたちの聞いたことを信じたでしょうか。主のみ腕は誰に示されたでしょうか。わたしたちは、主のみ前で、子どものように、渇いた地のなかにある根のように、告げ知らせた。わたしたちはかれを見た。かれは見るべき姿も美しさもなかった。かれの姿は、蔑まされ、人間たちの子らに比べて気色がなかった。かれは、痛手と苦しみを負い、衰弱を耐えることを知っている。かれは恥辱のゆえに顔を隠した。かれは卑しめられ、顧みられることはなかった。かれは、わたしたちの不法を担っているのだ。わたしたちのために苦しんでいるのだ。そしてわたしたちは、かれが苦しみと痛手と難儀のなかにあると思っていた。しかしかれは、わたしたちの不法のゆえに傷つけられたのだ。かれは、わたしたちの罪のゆえに衰弱したのだ。わたしたちに平和をもたらす懲らしめはかれに降りかかり、かれの受けた傷によってわたしたちは癒されたのだ[3]」と。ですからイエスは、わたしたちのかずかずの罪の弱さをお取りになり、わたしたちを担われたのです。そしてご自身を呪う人たちのところに来られたのです。かれがもろもろの天からお降りになられたとき、「かれの力は、呪う者たちによって衰えました」。なぜならかれは、お降りになられたとき、しもべの姿を取って、ご自身を空しくされたからです。それは使徒が言っているとおりです。「かれはしもべの姿を取って、ご自分を空しくされた[4]」と。ですからかれは言うのです。「わたしの力は、わたしを呪う者たちのなかで衰えてしまいました[5]」と。



[1] Jr.15,10.

[2] 2Co.13,4.

[3] Is.53,1-5.

[4] Ph.2,7.

[5] Jr.15,10.

 

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