第15講話

「ああ、わたしは禍だ」について再び別の意味で、そして「人間に望みを置き、自分の腕の肉を強くする者はさらに呪われる」まで。


 

  預言者たちを祝福し、またかれらを祝福しながら、預言者にあやかりたいと願う人たちは、預言の言葉から、かれらの預言の優れたところを集めます。こうしてこのような人たちは求めることによって、(預言者たちと)同じ生活を送れば、たとえ預言者の生活を模倣することがかれらにとって辛いものであろうとも、かれらは、預言者たちとともに休息と至福を手に入れることができると確信するでしょう[1]。実際、たくさんの個所から預言者たちの優れたところ、すなわちかれらの自由、気迫、警戒心、高揚を集めることができます。なじならかれらは、さまざまな境遇に置かれても自由のゆえに物怖じすることはなかったからです。かれらはただ譴責し、預言者として「神のみ言葉を大胆に語る[2]」ことによって、罪人たちを咎め回心させることだけを考えていたのです――たとえ非難されている人たちが大きな力を持っているように見えても。とは言え、たとえ至る所から優れたところを集めることができるとしても、わたしたちは今日朗読された個所<から>も考察してみることにしましょう。

預言者は、多くの人を咎めました。そして多くの人に語りかけました。実際かれは、罪人となった人たちのところに来たのです。それは、かれの時代に捕囚が起こったことから明らかです。かれは、多くの人を咎めましたので、多くの人によって裁かれ、何かそのようなことを口にしたのです。



[1] Cf.Hom.Jr.XIV,14,19.

[2] Cf.Ac.4,29.31.