では、先ずわたしたちは、預言者の気迫や自由、力や闊達さを指摘することができるかどうか、預言の言葉から考察することにしましょう。そして次に霊的な意味でこれを考察してみることにしましょう。「ああ、わたしは禍だ。わが母よ、わたしをどのような男として産んだのですか。わたしは全地で裁かれ、断罪される者となりました[1]」。わが母よ、どうしてわたしを生んだのですか。わたしは、この地のすべての人の前で裁かれ、この地のすべての人の前で断罪される男となりました。実際、この預言者にしても、イザヤにしても、その他の預言者たちにしても、かれらの課題は、預言をし、教え、回心させることでした。ですからこの預言者にとっても、裁き、咎め、そしてみずから罪人たちとともに断罪される可能性があっても断罪し、民のもろもろの罪を咎めることが課題となっていました。またこの民に属する人々がかれらに対して行ったことを言う必要があるでしょうか。かれらは、ある預言者には石を投げ[2]、ある預言者を鋸で引き、またある預言者を「神殿と祭壇の間で[3]」殺しました[4]。そして(民を)咎めたこの預言者(エレミア)を、「泥の窪みに[5]」投げ込みました。そしてすべて(の預言者たち)に勝って、わたしたちの救い主は、しかもかれらよりも優れた仕方でこのようにしました。なぜなら救い主は、預言者たちの主だからです。たしかにわたしたちの救い主は、ユダヤ人たちやユダヤ人たちの教師たち、そして民の指導者たちによって「鞭打たれ、十字架に付けられ、(異邦人たちに)渡される[6]」ことになっていたからこそ、「律法学者たちやファリサイ派の人たち、あなたがたは禍だ[7]」と言ったのです。そして、一人ひとりについて「禍だ」、「それゆえ」かくかくしかじかだと付け加えたのです[8]。ですからわたしたちも、かずかずの至福を目指す<のであれば>、(預言者たちと)同じことをしましょう。こうして、多くの人々の前で語り裁かれることで、「ああ、わたしは禍だ。わが母よ、わたしをどのような男として産んだのですか。わたしは全地で裁かれ、断罪される者となりました[9]」と言うことにしましょう。



[1] Jr.15,10.

[2] Cf.Hb.11,37.

[3] Mt.23,34-35.

[4] Cf.Hom.Jr.XIV,14.

[5] Jr.38,6.

[6] Cf.Mt.20,18-19.

[7] Mt.23,13.

[8] Mt.23,15-33.

[9] Jr.15,10.

 

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