以上は、「ああ、母よ、わたしは禍だ」に関していわば余談として言われたものだと<お見なし>ください。救い主が人間たちの数々の罪をご覧になって、ここで「わたしは禍だ」と言われたことがわたしたちの救い主の神性[1]と無縁のものではなく、神としての救い主ではなく人間としての救い主、知恵としての救い主としてではなく魂としての救い主に当てはまることを示すために[2]、わたしはあの預言の言葉を引用しました。「我が魂よ、わたしは禍である。敬謙な人は地から滅ぼされ、直き人は、人間たちの中にいない[3]」と。幸いな魂は、人間の生活に入ってこられ、人間たちのために身体をお取りになりました。そのような魂が数々の罪を見たとき、おん父に言いました。「わたしの血にどんな利益があるのですか。わたしが腐敗の中に降りてきたことにどんな利益があるのですか。土があなたに告白するのですか[4]」。しかしわたしたちに関して、「わたしは禍だ」と言われないようにしましょう。諸々の天の天使たちが、わたしたちについて「わたしは禍だ」と言わないようにしましょう。わたしたちの救い主が「わたしは禍だ」と言うのであれば、天使たちもまた、「わたしは禍だ」と、きっと言うに違いありません。なぜなら天使たちはわたしたちの救い主に勝ってはおらず、また、わたしたちの数々の過ちを見ているからです。しかし天使たちに「わたしは禍だ」と言われない人たちは幸いです。彼らは祝福を受けるのです。なぜなら「悔い改めを必要としない99人よりも、悔い改める一人の罪人のために、天においては喜びがある[5]」からです。

これは、慰めの言葉として言われたものです。「ああ、わたしは禍だ。わが母よ、わたしをどのような男として産んだのですか[6]」。誰を母と呼んでいるのでしょうか。「魂[7]」を婦人の意味で呼んだり、マリアのことを呼んでいると言えないでしょうか。しかしもしも人が、「たった今、わたしの母である聖霊がわたしを取り、大いなる山、タボルに連れていった[8]」以下の言葉を受け入れるなら、かれの母(が誰であるか)を知ることができるでしょう[9]

「ああ、わたしは禍だ。わが母よ、わたしをどのような男として産んだのですか。わたしは全地で裁かれ、断罪される者となりました[10]」。(救い主は)全地で裁かれ、断罪されます。そして、一人ひとりに次のように言うことになっているのです[11]。わたしは、かくかくしかじかのことをした。そしてわたしの経綸は、かくかくしかじかのことを行った。さらにわたしは、あなたの救いのために堪え忍んだ。救い主がこう言われるとき、わたしたちはどうすればよいでしょうか。



[1] h` tou/ swth/roj h`mw/n qeo,thj

[2] Cf.Hom.Jr.XIV,6.

[3] Mi.7,1-2.

[4] Ps.29,10.

[5] Lc.15,7.

[6] Jr.15,10.

[7] Cf.Mi.7,1.

[8] Év. des Hébr.

[9] Cf. Com.Jn.II, 12 , § 87.

[10] Jr.15,10.

[11] 最後の審判のときである。

 

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