さて、次から次へとたくさんの言葉が来まして、言われたことの一つひとつについて何かを言わなければなりません。しかし時間がわたしを責め立てるばかりで、余裕がありません。そこでわたしたちは、次に朗読された言葉について述べてみましょう。こう言われています。「人間に希望を置く者は呪われよ[1]」。この言葉によって<わたしたちは>、救い主は人間であって、神の子では<ない>と考えている人たちを<反駁することができます>。なぜならかれらは大胆にも、人間の多くの罪に加えて、さらに「独り子[2]」、「すべての造られたものに先立って生まれた方[3]」を神でないと言っているからです。たしかに「人間に希望を置く者は、呪われ[4]」なければなりません。人間に希望を置く者が呪われるのは明らかです。わたくしとしましては、わたしは人間に希望を置かないと申し上げたいです。わたしは、キリスト・イエスに希望を置きましても、人間を知りません。人間だけを知るのではなく、知恵、正義そのもの[5]、「諸々の天にあるものも地上にあるものも、見えるものも見えないものも、支配も権威も、すべてのものがそれによって造られた[6]」み言葉を知っているのです。

  「人間に希望を置く者は呪われよ」。たとえ救い主が、ご自分が身にまとったものは人間であったと証し、そしてまさに人間であったとしても、今は決して人間ではありません[7]。なぜなら「わたしたちは、肉に従ってキリストを知ることがあったとしても、今はもうそのようには知らない[8]」と、使徒は言っているからです。キリストの言葉に従いますと、このわたくしは、今やキリストゆえに、もう人間ではありません。むしろキリストはこう言われております。「わたしは言った。お前たちは神々であり、いと高きおん者の子らであると[9]」。ですからキリストが「諸々の死者の中から先立って生まれた方[10]」であるのと同じように、キリストは、神に変容することによってすべての人間に先立って生まれた方となったのです[11]

ですから「人間に望みを置く者は呪われ、その腕の肉を強める[12]」のです。肉なるものに価値を置く者は誰であれ、体力を持っていて肉に従って兵卒になる者は誰であれ[13](呪われるのです)。聖なる人はそうではありません。なぜなら聖なる人は、「その腕の肉を強め」ないからです。聖なる人は、「いつもイエスの死に瀕した状態をその身体に[14]」持っているのです。そして「この地上に属する肢体、淫らなこと汚らわしいこと[15]」を死なせているのです。聖なる人は、それらのものを死なせているので、「その腕の肉を強める」ことはありません。

「人間に望みを置く者は呪われよ[16]」。この言葉はまた、権勢に望みを置く者たちにも向けられています。わたしのある友人は、百人隊隊長であり、地方総督です。またわたしのある友人は、金持ちで、わたしに貢いでさえくれます。そしてそのような人に対してもこの言葉は語られているのです。「人間に望みを置く者は呪われよ」と。わたしたちは、いかなる人間にも望みを置きません――たとえかれらが、わたしたちの湯陣のように見えても。わたしたちはかれらに望みを置きません。わたしたちは、キリスト・イエスであるわたしたちの主に望みを置いているのです。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[17]」。



[1] Jr.17,5.

[2] Jn.1,18.

[3] Col.1,16.

[4] Jr.17,5.

[5] Cf.Com.Jn.VI, 6 (3) § 40.

[6] Col.1,16.

[7] Cf.Hom.Lc.XXIX, 7 (SC 87, 367); C.Celse II, 16, 52 (SC 132, 330).

[8] 2 Co.5,16.

[9] Ps.81,6.

[10] Col.1,18.

[11] Ouvkou/n w`j prwto,tokoj evstin evk tw/n nekrw/n( ou[twj ge,gone prwto,toko,j pa,ntwn avnqrw,pwn eivj qeo.n metabalw,n

[12] Jr.17,5.

[13] C.Celse V, 33; VII, 73; Hom.Ex.III,3(GCS 35, 168, 19 vel PG 12, 315 A, 15).

[14] 2 Co.4,10.

[15] Col.3,5.

[16] Jr.17,5.

[17] 1 P.4,11.

 

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