10  さて、次に、別の預言が存在します。わたしにはどういうわけかわかりませんが、わたしたちはそれを七十人訳に見出さず、他の版に、すなわちヘブライ語の版に見出しています[1]。そしてそれは、わたしたちが注意すればわたしたちの魂を回心させることのできるもっとも必要な教えに満ちています。その言葉は次のようになっています。「ユダの罪は、かれらの心の胸に鉄の鏨で書き記され、鋼の釘で刻み込まれる[2]」と。易きに走ってこう言うこともできます。これらはユダについて書かれたと。なぜならユダの人たちの罪が「書き記されている」からです。しかしわたしたちがしばしば示しましたように[3]、キリストが比喩的にユダと言われるのをあなたがご存知であれば、「ユダの罪」とは、「ユダ族から出た[4]」キリストを信じるわたしたちの罪ではないでしょうか。しかしもしもあなたが更に別の意味でより神秘的な意味を理解することができるのであれば、預言者は、裏切り者のユダについて預言しているのかもしれません。「ユダの罪は、かれらの心の胸に鉄の鏨で書き記され、鋼の釘で刻み込まれる」という預言は、彼について言われたことになるでしょう。しかしそれでも「彼らの」という言葉はユダに必然的に当てはまるものではありません。おそらくこれらの預言は、わたしたちが罪人となったとして、その場合のわたしたちに当てはまると(エレミアは)言っていたのではないでしょうか。わたしたちは罪を犯しました。そしてわたしたちの罪は、わたしたちの外に「書き記された」のではなく、わたしたちの「心の中に書き記された」のです。しかも「鉄の鏨、鋼の釘で」。わたしたちの犯した罪が、罪を犯したということによってわたしたちの内に書き込まれることは、行いそのものが示してくれるでしょう。どのような行いあるいはどのような罪かわたしには分かりません。わたしは罪を犯すことによって、罪の刻印を受けます。それはあたかもわたしの犯した罪の刻印がわたしの魂の中に書き込まれるかのようであります[5]そしてもしもわたしの罪がインクで書かれたなら、わたしはその罪を抹消したことでしょう。ところがわたしの罪は、「鉄の筆で」書かれ、「鋼の釘で」書かれ、わたしたちの「心の胸」に書かれているのです。それは、わたしが法廷に出廷して、次のように言う預言が成就するためです。預言は、「覆われたもので現れないものはなく、隠されているもので知られないものはない[6]」と言っています。わたしの胸と、「鉄の筆、 の釘で」罪の文字を書き込まれたわたしの心がむき出しにされすのです。そしてすべての人が、わたしの胸とわたしの心の中にわたしの犯したもろもろの罪の刻印を読み取るのです。「なぜなら覆われたもので現れないものはない」からです。そればかりか「諸々の思いはお互いに非難し合い弁護し合っている[7]」、そして「主が来られるまで、あなたがたは何事もはやまって裁いてはなりません。主は暗闇に隠れているものを照らし、諸々の心の思いを明らかにされる[8]」とあります。主は誰に「明らかにされる」のでしょうか。ご自身に対してではありません。なぜなら主は、「すべてのものの創造に先立ってすべてのもの[9]」をご存知だからです。それでは一体誰に明らかにされるのでしょうか。罪を犯した人の罪を自分たちの清さのゆえに見ることになるすべての人々に対してです。罪を犯した人々は、「非難と永遠の辱め[10]」を受けるために復活することになっているのです。わたしたちがキリストに結ばれた栄光の内に復活できるよう、万物の神がわたしたちをこれらすべてのことから守ってくださいますように。キリストに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[11]」。



[1] Cf. Hom.Jr.XV,5.

[2] Jr.17,1(hébr).

[3] Cf.Hom.Jr.V,15; IX,1,4.

[4] Cf.Ap.5,5; He.7,14.

[5] De Or.28,5(GCS 3, 378, 8-12); Com.Rm.II, 10(PG 14, 894 AB); Hom.Ps.38, II, 2 (PG 12, 1403 D); cf.H.Crouzel L'image de Dieu chez Origène, Paris, 1956, p.182, n.2.

[6] Cf.Mt.10,26.

[7] Rm.2,15.

[8] 1 Co.4,5.

[9] Dn.1,35;16,42.

[10] Dn.12,1.

[11] 1 P.4,11.

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