さて、彼らは「わたしの顔から隠れなかった」とあります。このようなことを行なった人たちは、そのとき罪の中にいました。そして彼らは海の中にある諸々の罪から釣り上げられました。しかし、釣り上げられた人たちがその後、諸々の山に移って、これらのことは正義にかなった仕方で自分たちに起こったのだと思い描かないようにするために、み言葉は彼らばかりでなく、わたしたちにも、以前の諸々の罪を思い起こさせます。それでこれらの恩寵の後で、次のように言われているのです。「そして彼らの諸々の不正は、わたしの目から隠されなかった[1]」。

引き続く個所は、わたしたちに難題を投げかけています。つまり、わたしたちは、<引き続く個所をその当然の結果として>理解して、諸々の罪の報いを注意深く考察すべきなのでしょうか。それとも引き続く個所は、釣り上げられた人たちや捕らえられた人たち諸々の報いの必然的結果ではないと考えられるのでしょうか。こうして引き続く個所は、わたしたちを抜き差しならぬ難題に巻き込ませます。こう言っております。「わたしは先ず、彼らの不正と彼らの罪を二倍にして報いる。彼らが諸々の忌まわしいものの死体と自分たちの不正で私の地を汚し、私の嗣業を自分たちの不正で満たしたからだ[2]」と。この「先ず」という言葉を、ある人たちが何気なく写本から取り除いてしまったのか、七十人の訳者が経綸に配慮して取り除いてしまったのかは、神がご存知でしょう。しかしわたしたちとしては、その他の版と比べてみますと、「そしてわたしは先ず、彼らの不正を二倍にして報いる」という言葉があるのを見出します。その言葉の目的は、たとえ彼らが自分たちの第二の業によって至福に値する者になったとしても、かれらは人間であり、しかも諸々の罪の中にあったのですから、先ず彼らは自分たちの諸々の罪の報いを受け取らねばならないということを明らかにすることにあります。そしたあなたは、この言葉が真実ではないのかお考えください。信仰を持ち、諸々の罪の許しを得た後で、イエスが「あなたの諸々の罪は赦された。もう罪を犯してはいけない[3]」と言うのを聞き、<もはや罪を犯さなくなった人>以外の誰が、諸々の罪の報いを受け取るのでしょうか。そしてわたしたち一般大衆は、使徒たちのように完成の域に達した者でありませんから、もしもわたしたちが、諸々の罪の赦しと、「再生の洗い[4]」という経綸の後で罪を犯すなら、わたしたちは罪を犯した後で、あるいは罪を犯すとともに、わたしたち何を行なうべきか、あるいは何がわたしたちを待ち受けているかを考えねばなりません。

もしもわたしたちが数々の罪を伴いながら、そして数々の勇気ある善行を伴いながらこの世の生活を後にするとしたら、果たしてわたしたちは、勇気ある善行のゆえに救われ、それと知って犯した諸々の罪を赦されるのでしょうか。それともわたしたちは、数々の罪のゆえに懲らしめを受けるだけで、勇気ある善行の報いは決して受けないのでしょうか。しかしどちらの一方も、すなわちより悪い報いを受けて、より善い報いを受けないと言うことは、正しい神にふさわしいことではありません。またいずれかの一方も、すなわちより善い報いを受けて、より悪い悪い報いを受けないということも、悪を取り除いて滅ぼすことをお望みになる正しい神にふさわしいことではありません。たとえばあなたが、教えを受けたキリスト・イエスを土台に据えて、「金、銀、宝石」だけで家を建てたのではないとしましょう――もちろんあなたが量の大小を問わず金を持っていればの話ですが。そしてあなたが「木や草そして藁[5]」を持っているとしましょう。あなたは死後に、自分に何が起こってほしいとお望みですか。そもそもあなたは、神の国を汚すために、あなたの木、あなたの草そして藁を伴って聖なる地に入るのでしょうか。それともあなたは、草のゆえに、木のゆえに、藁のゆえに火のなかに留まり続けて、金や銀そして宝石のゆえに報いを一つも受けないおつもりなのでしょうか。これも理にかなったことではありません。



[1] Jr.16,17.

[2] Jr.16,18.

[3] Jn.5,14,15.

[4] Tt.3,5.

[5] 1 Co.3,11-13.

 

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