「もしも人間が自分自身のために神々を作るとすれば[1]」。人間たちは諸々の彫像から自分たちのために神々を作るだけではありません。人間たちは諸々の作り事からも神々を作っているのをあなたは見出すでしょう[2]。実際、別の神を作り上げたり、()霊によって書き記された世界の経綸や真の世界とは異なる世界創造を捏造することのできる人々は皆、「自分自身のために神々を作り」、「(自分たちの)手の業にひれ伏したのです[3]」。たとえば、ギリシア人たちの中でこれこれしかじかの哲学の教えを生み出した人たちや、諸々の異端の中で教えを生み出した最初の人たちをお考えください。彼らは、自分たち自身のために偶像と魂の作り事を制作して偏向し、「自分たちの手の業にひれ伏し」、自分自身の作り事を真理として受け入れたのです。

  ですから感覚的にあるいは知性的に自分自身のために神々を作る人々のすべてを非難して、み言葉は次のように言っています。「人間が自分のために神々を作っても、それは神々ではない」。「それゆえわたしは今度こそ、彼らにわたしの手のを示そう。そしてわたしは、彼らにわたしの力を知らせよう[4]」。今度とはいつの時でしょうか。み言葉は、主の来臨の時を差して「そしてわたしの名が主であることを<彼らに知らせよう>[5]」と言っています。



[1] Jr.16,20.

[2] Ep.ad Gregor. 3 (2), 73-79 (SC 148, p.192).

[3] Cf.Is.2,8.

[4] Jr.16,21.

[5] Jr.16,21.

 

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