彼の日々の半ばで、(雛たちは)彼を見捨てることになろう[1]」。わたしたちは皆、かつて、声を上げるうずらもとにおりました――実際、うずらは、先に言われた人たちを通してだけ声を上げたのではありません。無神論を敬虔に呼び招くかのように、真理とは正反対の教えに招くありとあらゆる人々を通しても声を上げるのです――。しかしわたしたちは、「その日々の半ばで」彼を捨てました。なぜなら彼のすべての日々は、この代の日々だからです。キリスト・イエスは、「現在のこの邪悪な代からわたしたち[2]」を選び出してくださったので、わたしたちは「彼の日々の半ばで」、彼を見捨てたのです。

  そしてその終わりの日々に、彼は愚か者となる[3]」。とうことは、「その終わりの日々に、彼が愚か者なる」のですから、彼が賢かったときがあるのでしょうか。たしかに彼は賢かったと、わたしたちは言うことにしましょう。なぜなら、「蛇は、主なる神がお造りになった地上のすべての獣たちの中で一番賢かった[4]」からです。彼は、『イザヤ書』に言われているような意味で賢明でした。「わたしは、尊大な心、アッシリアの支配者を打つ。彼は言っていた。『わたしは自分の力によって行なおう。わたしは、知性の知恵によって、諸国の境を取り去る。そして彼らの力を削ぎ、彼らの住んでいる町を荒廃させる』と[5]」。理解力のある人は、どのような意味で「その最期が愚かになる」のかお考え下さい。悪において賢かった人――「たしかに彼は、地上のあらゆる獣にまして賢いでした[6]」――そのような人は、賢かったのとは裏腹に、悪において愚か者になります。もしもあなたが、自分の救いのために愚かさを受け入れるようにと、どのようにして使徒によって命じられたかをご存知なら、あなたは、「彼の最期が愚かである」ということが何を意味するかを理解するでしょう。使徒はこう言っています。「もしも誰かが、あなたがたの内で、自分をこの代で知恵ある者と思うなら、そのような人は愚か者になりなさい[7]」と。使徒は、「愚か者となり、ばか者となりなさい」とあらかじめ叫んでから、「それは知恵ある者となるためです」と(言葉を)結んでいます。ですから、「この代の子らは、この時代においては、光の子らよりも賢い[8]」と言われているように、咎められるべき知恵があるとすれば、神は慈しみ深い方です。神は反対のものによって、反対のものを滅ぼし、「彼の最期は愚かになる」と言いわれていることを成就してくださるのです。いつ「彼の最期が愚かになる」のでしょうか。神がご自分のすべての敵をご自分の足におくまで、キリストが支配しなければなりません」。そして「すべてのものをご自分に従わせたとき、最期の敵として死が滅ぼされます[9]」。「死が滅ぼされたとき」、うずらの最期が来るのです。「そして彼の最期は愚かとなる」のです。



[1] Jr.17,11.

[2] Ga.1,4.

[3] Jr.17,11.

[4] Gn.3,1.

[5] Is.10,12-13.

[6] Gn.3,1.

[7] 1 Co.3,18.

[8] Lc.16,8.

[9] 1 Co.15,25-26.

 

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