「ご覧ください、彼らはわたしに向かってこう言っています。『主のみ言葉は、どこにあるのか。それを来させてみよ』と。しかしわたしは、あなたの後に従うことに疲れ果てませんでした[1]」。イエスは、あなたに次のように言っているのです。「十字架を担って、わたしに従いなさい[2]」、「一切を捨てて、わたしに従いなさい[3]」、「父と母を捨てずにわたしの後に従って来る者は、わたしの相応しい弟子になれない[4]」と。ですからもしもあなたが、いつでもイエスの後に従えるような人物になるのであれば、あなたは従うことができるでしょう。そしてあなたがしたがっている限り、あなたは疲れ果てることはないでしょう。なぜなら、「ヤコブには苦しみがなかった。またイスラエルには苦痛がなかった[5]」からです。イエスに従うことに、疲れはあり得ないのです。従うことそれ自体が疲れを取り除いてくれるのです。そういうわけでイエスは、わたしたちが彼に従い始める前は疲れていたのに、もうわたしたちが疲れないようにするために、次のように言ったのです。「重荷を負って疲れているあなたがたは皆、わたしのもとに来なさい。そうすればわたしはあなたがたを休ませてあげよう[6]」と。

  ですから、もしもわたしたちが疲れて、イエスのもとに来て、彼に従えば、わたしたちは次のように言うことになるでしょう。「しかしわたしは、あなたの後に従うことに疲れ果てませんでした」と。そしてこの言葉に続けて、わたしたちが更に、「わたしは、人間の日を望みませんでした[7]」と言うのは理にかなっています。人間の日があります。そして神の日があります。わたしたちはそれぞれ、諸聖人の復活の日を望むべきであって、次のように書き記されている願ってはなりません。すなわち、「禍だ、主の日を望む人たちは。その日は、闇であって光ではない[8]」と。「わたしはまた、主の日を望みませんでした」と言う人は、誰でしょうか。み言葉の明晰さは、わたしたちが人間の日を望んだとして、わたしたちを咎めます。わたしたちが病気になり、死の妄想に捕らわれると、わたしたちを見舞いに来た兄弟父に、しばしば願い事をしてこう言います。わたしのために暇を願ってください。わたしが生き長らえるように願ってくださいと。わたしたちは、このように言いながら、神の聖なる日を願わないで、人間の日を願っているのです。ですからわたしたちは、生命への執着をやめ、人間的な日を願うのをやめて、わたしたちがキリスト・イエスにおいて至福を得ることのできるかの日を求めることにいたしましょう。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[9]」。



[1] Jr.17.15-16.

[2] Cf.Mt.16,24.

[3] Cf.Mt.19,27; 9,9; 8,22.

[4] Cf.Mt.10,37-38.

[5] Nb.23,21.

[6] Mt.11,28.

[7] Jr.17.16.

[8] Am.5,18.

[9] 1 P.4,11.

 

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