さて預言者は、陶工の家に下り、自分が見たものを述べて、こう言っています。「そして見よ。彼は、自分の両手の上で仕事を行なっていた。そして彼が自分の両手で粘土から作った器が落ちた。そこで彼はもう一度、別の器を自分の望みのままに作った[1]」と。しかしわたしは、預言者が陶工のもとにいたとき何を見たのか知りません。確かに彼は、陶工が仕事をしているのを見ました。作られた器は粘土からできており、その器が落ちました。しかしなぜ彼は正確に言わなかったのでしょうか。陶工は、器を自分の手から放しました。陶工にも責任が帰されたのではないでしょうか。しかし(聖書の)み言葉は、生命ある器に関わっているのです。それらの生命ある器は、自分から落ちていきました。それで次のことが言われたのです。「その器は、彼の両手から落ちた」と。ですからあなたも、陶工の手の内にあり未だに成型されているときに、彼の両手からみずから落ちないように注意してください。実際、『ヨハネによる福音』の中に語られていることによれば、彼の「両手から奪い去る者は誰もいない[2]」のです。奪い去る者は誰もいないのと同じように、彼の両手から落ちる者は誰もいないとは、確かに書かれておりません。自由意志を持つ者は寺湯女のです。そしてわたくしはこう申し上げたいと思います。牧者の手から奪い去る者は誰もいませんし、誰も神の手から私たちを取り去ることはできません。<むしろ>わたしたちが、みずからの怠慢によって、彼の両手から落ちていくことができるのです。



[1] Jr.18,3-4.

[2] Cf.Jr.10,29.

 

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