(お前たちは)各々、自分の悪の道から立ち帰り、お前たちは、お前たちの暮らしを改善しなさい[1]」。純粋な人たちが次のように言ったとしましょう。昔の人たちは幸せであった、なぜなら彼らは、預言者を通して語る主の言葉を聞き、主は彼らの話されたからだと。私たちに対しても、今日、主は聖書を通して「(お前たちは)各々自分の悪の道から立ち帰れ」と言っておられます。主おんみずから、あなたと語り、こう言われているのです。「お前たちは、お前たちの暮らしを改善しなさい」と。しかし回心の誘うみ言葉が向けられた人々は、応えております。私たちは彼らがどう答えたか見て、私たちもそのように応えないように致しましょう。では、何と答えたのでしょうか。彼らは、こう答えて言っています。「私たちは、私たちの諸々の背徳の後ろを歩むことに決めました。そして各々その邪な心の喜ぶことを行ないます[2]」と。たとえあなた方がこれらの言葉通りに言わなくても、あなた方のこの生活が罪を犯すような類のものであるならば、あなた方も、勧めの言葉の後に、邪な行いの数々によって潜在的に、「私たちは、私たちの諸々の背徳の後ろを歩むことに決めました。そして各々その邪な心の喜ぶことを行ないます」と言っていることになるのです。では、「私たちは、私たちの諸々の背徳の後ろを歩む」とはどういうことでしょうか。「鋤に手を」掛け[3]、耕しつつ「前にある数々のものに身を伸ばし」、「後ろにある数々のものを忘れ[4]」始めた人は、数々の卑劣なことから離れたのです。ですから誰かが、「鋤に手を」掛けながら、数々の後ろのものに向き返るとき、その人は、みずからの「数々の背徳の後ろ」を歩くことになるでしょう。なぜならその人は、かつて離れた諸々のものの後ろを歩き、かつて捨て去った諸々の罪の方に再び走り戻ることになるからです。ですから、異邦人の生活を棄てて信仰の手引きを受けている皆さんであれ、、既に信仰を得て、「前方にある数々のものに身を伸ばしつつ」進歩している信者の皆さんであれ、これらの言葉を聞いている皆さん、もしも皆さんの生活が邪悪なものになったなら、皆さんは、次の言葉を言っているに他ならないのです。「私たちは、私たちの背徳の後ろを歩いている」。それも単に「各自の心の望むままに」ではなく、「邪な心の望むままに行なっている」と。なぜなら心には、邪な心と善い心があるからです。

ですから誰も、自分の「諸々の背徳の後ろを」歩かないようにしなければなりませんし、また、「その邪な心の望むことを」行なわないようにしなければなりません。「それ故」、このような答をする人に、主は「言われます。お前たちは諸国の民の内に尋ねてみよ。誰が、イスラエルの乙女がはなはだしく行なったこれらのおぞましいことを聞いたであろうか[5]」と。その上、これらの言葉は単純に言われているように思えます。しかし諸国の民に由来する教会は、然るべき仕方で神に立ち帰ったなら、次のように言われることになるのです。「お前たちは諸国の民の内に尋ねてみよ」。お前たちは、「イスラエルの乙女がはなはだしく行なったおぞましいことを聞いた」と。実際、私たちは、罪を犯したあの人たちの生活と、立ち帰って信仰を持った人たちの生活とを比べてみましょう。そうすれば私たちは、あの人たちが「栄光の主[6]」を殺害しておぞましいことを行ないましたが、後者の人々は、前者がおぞましいことを行なったのに反して、彼らによって世の諸々の罪のために排斥され殺された主に立ち帰ったことを知るでしょう。



[1] Jr.18, 11.

[2] Jr.18, 12.

[3] Cf.Lc.9,62.

[4] Cf.Phil.3,13.

[5] Jr.18,13.

[6] 1 Co.2,8.

 

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