さて、「お前たちは諸国の民の内に尋ねてみよ。イスラエルの乙女がはなはだしく行なったこれら望ましいことを一体誰が聞いたか。乳が岩から止み、雪はレバノンから消えるだろうか。それとも風によってむりやりもたらされた水が涸れてしまうのだろうか。私の民は私を忘れて、空しく香をたいた。彼らは、自分たちが永遠に辿る数々の道で弱り果てる。そして彼らは、道のない道を辿って歩み、自分たちの土地を破滅と永遠のあざけりに陥れる[1]」。ここで水の違いが述べられています。第一に、「乳が岩から止むのだろうか」という言葉の中に、第二に、「雪はレバノンから(消えるのだろうか)」という言葉の中に、そして第三に、「風によってむりやりもたらされた水が涸れてしまうのだろうか」という言葉の中に。これら三種類の水は、鹿にたとえられる義人たちの魂が求める水の泉なのです。義人たちはそれぞれ、「鹿が水の泉を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める[2]」と言うことでしょう。では、諸々の蛇の輩の敵である鹿とは誰なのでしょうか[3]。鹿は、蛇の毒をまったく被らないと物語られております。誰が、「わたしの魂は生ける神を渇望した[4]」と言うことができるほどにかみを渇望したでしょうか。誰が、岩の乳を渇望したでしょうか。「岩とはキリストのことです[5]」。誰が、「鹿が水の泉を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める[6]」と言うことができるほどに、聖霊を渇望したでしょうか。もしも私たちが水の三つの源を渇望しなければ、水の一つの源さえ私たちは見出さないでしょう。ユダヤ人たちは、水の一つの泉、すなわち神を渇望したように見えますが、彼らはキリストと聖霊を渇望しなかったので、神からさえも飲むことはできないのです。諸々の異端に属する人たちは、キリスト・イエスを渇望したように見えますが、しかし彼らは律法と預言者たちの神であるおん父を渇望しなかったので、それゆえに彼らは、イエス・キリストから飲むことはありません。また、唯一の神を保持していながら、預言者たちを無にしている人たちは、預言者たちの内にいる聖霊を渇望しませんでした。それゆえ彼らは、おん父の泉からも飲むことはないでしょうし、神殿で叫びを上げてこう言われた方からも飲むことはないでしょう。「もしも誰かが乾いていれば、わたしのところに来て飲みなさい[7]」と。

ですから「岩から乳が涸れる[8]」のではありません。むしろ彼らが、「生命の水の泉を棄てた[9]」のです。生命の水の泉が彼らを棄てたのではありません。実際、神は誰からもご自分を遠ざけません。むしろ神からみずからを遠ざける人たちが滅びることになるのです[10]。神は、何らかの人たちに近づかれ、ご自分のもとに来る人に会われます。ですから身代を食い潰した放蕩息子が戻ってきたとき、おん父は彼に会いました[11]。そしておん父は、預言者たちを通して約束し、次のように言っています。「外套が彼らの肌に近い以上に、わたしは彼らに近づく[12]」と。なぜなら「わたしは、近くにいる神であって、遠くからの神ではないと、主は言われる[13]」、と言われているからです。

ですからイエスの水である「乳は岩から涸れることはないでしょう」。おん父の水である「レバノンの雪[14]」は消えることはないでしょう。そして乳香は、神の律法によれば神聖な方向であり、「混じりけのない乳香が等しく祭壇に奉げられる[15]」のです。またこの(レバノン)山も、この乳香と同名です。そして聖霊の水と同じように、レバノン山から下ってくる雪があります。この聖霊の水について、次のように書かれています。「風によって激しくもたられる水は涸れることがない[16]」と。たしかにその水は、風によってもたらされるのです[17]。聖霊の水は、「涸れることがありませんし」、逃げることもありません。むしろ私たちの一人ひとりが罪を犯して、聖霊から飲むことから離れた逃亡者となるのです。



[1] Jr.18,13-16.

[2] Ps.41,2.

[3] Cf. Hom.Ct.II, 11; Com.Mt.XI,18; C.Celse II, 48.

[4] Ps.41,3.

[5] 1 Co.10,4.

[6] Ps.41,2.

[7] Jn.7,37.

[8] Jr.18,14.

[9] Jr.2,13.

[10] Cf.Ps.72,27.

[11] Cf.Lc.15,12.14.20.

[12] Cf. Clemens Alex., Paed.I, ix, 84.

[13] Cf.Jr.23,23.

[14] Jr.18,14.

[15] Cf.Ex.30,34.

[16] Jr.18,14.

[17] 「風」は、ギリシア語では()霊も意味する。

 

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