11  エレミアは、「そして祭司エメルの子パスコルが」預言の言葉を「聞いた」と預言しました。そして単純な帰結として、エレミアの預言を聞いた人々は、当然多数であってもいいおに、パスコル以外の名は直ちに書き記されていません。しかし聖書は、彼が誰の息子であるかを述べて、彼がエメルの子であり、祭司と呼ばれていると言い、彼が民の中でどのような地位を得ているかを述べて、「エレミアがこれらの言葉を預言した」とき、「彼が主の家の長として立てられた[1]」と言っています。そして「この預言の言葉を聞いたパスコルは、エレミアを打った[2]」と書き記されています。そしてパスコルは、エレミアを打ったことに満足せず、更に彼を「穴」に突き落としたと書き記されています[3]。聖書は、その穴がどこにあったかを述べて、「ベニアミンの門[4]」にあったと言っています。そしてその穴は、上階のある場所、すなわち他ならぬ「主の家[5]」の上階のあった場所にあると言っています。聖霊は、以上のことが、エレミアの預言に対してエレミアに起こった、しかもパスコルから起こったと書き記したのです。そしてこう言っています。「翌日、パスコルはエレミアを穴から引き出した[6]」と。そして穴から引き出されたエレミアは、パスコルに言っています。主はパスコルという名前であなたを呼ばない。別の名前があなたに与えられた。ヤコブにイスラエルという名が、アブラムにアブラハムという名前が、サラにサッラという名が与えられたように、「流刑者[7]」という名が与えられた。(主が)あなたを流刑者と呼んだのは、「『見よ、私はお前を、すべての人たちと共に流刑にする』と主が言われた」からです。誰と共にでしょうか。お前の婦人でも、お前の息子たちでも、お前の娘たちでもありません。「お前の友人たち」と共にです。そしてお前が流刑に処せられるとき、お前の友人たちは剣に倒れます。次に、敵たちの剣に倒れるのと、他の人たちの剣に倒れるのとでは、剣に倒れるのに違いがあるように、(主は)、エレミアを穴に投げ入れた人の友人たちは「自分たちの敵たち」剣に倒れると言っています。「そしてお前の両目」は、それらの預言された<事柄>を「見るであろう」と(主は)言われております。そしてお前の友人たちが剣に倒れた後、「私は、お前と、ユダのすべてを、バビロニアの王の手に渡す」。「彼らはバビロニアに流され、倒される[8]」。たしかにユダの王とユダに属する者たちは剣に倒れる。しかし彼らは、パスコルの友人であると言われた前出の人々と同じように、「自分たちの敵たち」という言葉がもはや言い添えられていません。そして(主は)次のように言っています。「そして私はこの町のすべての力とユダの王のすべての宝、この町のすべての能動の実りを、彼らの敵たちの手に渡す」。それは敵たちが、それらの宝を「略奪し」、いま言われた金品を「奪い取り」、ユダとその町の王を「バビロニアに連れ上る」ためである[9]。そして「おお、パスコルよ。お前とお前の家に住むすべての者は、捕囚となって」バビロニアに「向かえ」。そしてそこで「お前は死ぬ。お前と、お前が数々の偽りを預言したお前のすべての友人たちは、その地に葬られる[10]」と。

  この節全体を要約し、まだ明らかになっていないこの節の深い意味を――もしも私たちがそれを理解することができるなら――明らかにしなければなりません。私たちが明らかにしたのは物語や言葉そのもの、それもだれもが安易にではなく慎重に文字に当たれば、ひょっとしたら理解できるものばかりでした。では、これらの事柄は、何を言おうとしているのでしょうか。この箇所で問題になっていることは、これらの文字の意味を示すことです。そして私は、私の力では、これらの文字を説明することができないことを認めます。むしろ前に申し上げましたように、智恵である限りのイエス、み言葉である限りのイエス、真理である限りのイエスの力の顕現を必要としているのです。それは、イエスの力の顕現が私の魂の顔に光をともしていただくためです。



[1] Jr.20,1.

[2] Jr.20,2.

[3] Jr.20,2.

[4] Jr.20,2.

[5] Jr.20,2.

[6] Jr.20,3.

[7] Jr.20,3.

[8] Jr.20,4.

[9] Jr.20,5.

[10] Jr.20,6.

 

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