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<三行半欠落>

・・・ エジプト人たちの「魔術師たち」も杖を持っていました。しかしその杖は、モーセとアロンの杖を神からのものでないものとして中傷しようとする杖なのです。ところが神からの杖は、智者たちと「魔術師たち」の杖をくつがえすものなのです。「アロンの杖は、それらを飲み尽くした[1]」とあります。なぜならそのためには、モーセの杖がなくても、アロンの杖で十分だったからです。

さて、パスコルは「預言者エレミアを打ちました[2]」。それもいつものように「預言者エレミアを打った」のです。ここで「預言者」という言葉が付けられています。ですからここでエレミアを打った人は、預言者を打ったのです。ところで『使徒行録』には、ある人が大祭司アナニアの命を受けて、パウロを打ったことが書き記されています。それについてパウロは、「白く塗られた壁よ、神はお前を打つであろう[3]」と言っていました。そして今でも、み言葉の非合法な大祭司に命じられて、エビオン派の人たちは、中傷に満ちた言葉でイエス・キリストの使徒を打っているのです。そしてパウロはそのようなみ言葉の大祭司に対して、「神はお前を打つであろう」と言っているのです。そしてそのような大祭司は、見た目には麗しく、白く塗られた壁なのですが、「内心では、死者の骸骨とあらゆる汚れで満ちている[4]」のです。しかしなぜ私は、パウロとエレミアについて話をするのでしょう。私の主イエス・キリストご自身がこう言っているのです。「私は、私の背中を鞭打ちに渡し、私の頬を平手打ちに渡した。そして私は、私の顔を唾の恥辱から背けなかった[5]」と。純粋な人たちは、この出来事を、ユダヤ人たちがイエスに謀を巡らして、ピラトが彼を鞭打った時だけのことと理解します。しかし私は、イエスが毎日、「ご自分の背中を鞭打ちに渡す」のを見るのです。あなたは、ユダヤ人たちのシナゴーグにお入りになってみてください。そうすればあなたは、イエスがユダヤ人たちの冒涜の言葉で鞭打たれているのを見るでしょう。諸国の民から出た人たちが「相集って[6]」、キリスト者たちに謀を巡らしいるのをご覧ください[7]。彼らがどのようにしてイエスを奪ったかをご覧ください。イエスは、「ご自分の背中を鞭打ちに渡している」のです。神のみ言葉が信仰を持たない人たちから侮辱され、罵られ、嫌悪されているのをお考え下さい。イエスがご自分の頬を平手打ちに渡したことをご覧ください。そして「もしも誰かがあなたの頬を打ったなら、もう一方の頬も向けなさい[8]」とお教えになった後で、彼が(実際に)そうされたことをご覧ください。非常に多くの人たちが彼に平手打ちを加え、鞭打っていますが、彼は沈黙を守り、しゃべりません。実際、彼は鞭打ちの際にしゃべらなかったと書き記されています[9]。そしてイエスは今に至るまで、「唾の恥辱から顔を背けませんでした[10]」。(イエス)教えを見くびる人たちの内の誰が、その教えを担うイエスに唾を吐きかけるようなことをしていないでしょうか。



[1] Cf.Ex.7,11-12.

[2] Jr.20,2.

[3] Ac.23,3.

[4] Cf.Mt.23,37.

[5] Is.50,6.

[6] Cf.Ps.2,1-2.

[7] Cf.Hom.Jr. XIV,7.

[8] Cf.Mt.5,39; Lc.6,29.

[9] とはいえ福音書にはイエスの沈黙は言及されていない。Cf. Jn 19,1; 19,9).

[10] Is.50,6.

 

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