14  「そして翌日、パスコルは、エレミアを穴から引き上げた[1]」。ああ、主よ。再び来てください。私とここに来ている人たちの霊的養いのために、これらのことも明らかにしてください。どうして彼は、「翌日、エレミアを穴から引き出す」のですか。と申しますのも、「今日という日」がある限り――今日という日はこの代全体のことですが[2]――、罪人は預言者を穴に投げ込むからです。しかしこの日が終わり、明日が訪れたとき、罪人は、回心して、彼を穴から引き上げることになるのです。

次にエレミアは、パスコルが被ることを彼に告げます。エレミアは、彼になんと言っているのでしょうか。こうあります。「(主は)お前の名をパスコルとは言わない。流刑者と呼ぶであろう」。このパスコルは、その諸々の罪に相応しくバビロニアに移されるでしょう。ただし彼一人ではありません。彼の友人たちと共にです[3]。実際、彼は、ネブカドネザルに渡され、艱難へと旅立ち、その諸々の罪の上に懲らしめを受けるでしょう。なぜなら彼は、「預言者を穴に投げ込んだ[4]」からです。パスコルの友人たちとは誰でしょうか。パスコルとは、口の黒さにちなんで言われる名前です。彼の言葉を受け入れた者たち、黒くなった彼の口と同じように黒くなった者たち、黒さの教えを受け入れた者たちは皆、彼の友人なのです。

「そして彼らは、その敵たちの剣に落ちるであろう[5]」。懲罰の任に当たる人たちが[6]、剣を手にし、彼らを剣にかけるのです。み言葉は、彼らについて預言して、こう言っています。「そしてお前の目は見るであろう」と。

「お前の目は」これらの預言された事柄を「見るであろう。そして私は、お前とユダのすべてをバビロニアの王の手に委ねる[7]」と、み言葉は言っています。ユダで、艱難を意味するバビロニアの王に相応しい者として囚われた者は皆、バビロニアの王に渡されるでしょう。そしてバビロニアの王は、罪を犯したこれらの者たちを捕らえるのです。ところでバビロニアの王とは、歴史的な意味ではネブカドネザルですが、霊的的な意味では悪霊のことです。そこで罪人は、この悪霊に渡されます。なぜなら悪霊は、「敵と懲罰者[8]」の二役を兼ね備えているからです。罪人が悪霊に渡されることについては、パウロに教えてもらうのがいいでしょう。パウロはどこかで、ピュゲロスとヘルモゲノスについてこう言っています。「私が彼らをサタンに渡したのは、彼が冒涜を働かないように懲らしめられるためです[9]」。また別のところでは、姦淫を犯した者についてこう言っています。「あなた方と私の霊は、主イエスの力に結ばれているのですから、私は、肉の滅びのためにこのような人をサタンに渡すことに決めました。それは、主イエス・キリストの日に、霊が救われるようになるためです[10]」と。

ですから口の黒さを意味するこのパスコルは、「バビロニアの王の手に」渡されるのです。そして人々は彼をバビロニアに移しました。「そして彼らは剣に落ちる。そして私は、この町のすべての力を渡す[11]」。これらの言葉がエルサレムについて預言していると言うことはやさしいことです。実際、当時のエルサレムのすべての力とそれに付随するものがバビロニア人たちの王に渡されたのです。またこれらの言葉が、救い主の時代に敵たちに渡された「このエルサレム」について預言したものだ言うことはやさしいことです。この時、エルサレムの子らは捕らえられ、町は破壊されました。しかしもしもあなたがこれらの事柄を吟味し、石の町ではなく、人間たちとしての町を見るならば、あのエルサレム、すなわち人間たちが、キリストに対する不信と罪の故に、「バビロニアの王の手に」渡されるのに気がつくでしょう。そして今のあなたのエルサレムなのです。ですからもしも今、み言葉がエルサレムを脅しているとして、あなたが罪を犯しているのであれば、あなたも罪深いエルサレムではないのか恐れてください。そしてあなたがもはやエルサレムではなく、バビロニアと艱難とになったのではないか恐れてください。なぜならバビロニア人たちの王ネブカドネザルは、あなたを捕らえるからです。

そして彼らは、エルサレムの「すべての労苦」を渡す[12]。どのようにして彼らは、「すべての労苦」を渡すのでしょうか。もしもあなたが苦労して戦った後で、再び罪に陥るなら、あなたのすべての労苦は、ネブカドネザルの手に落ちるのです。どのようにしてあなたのすべての労苦はそうなるのでしょうか。もしもあなたが、真理のために多くの苦労をした後で、(罪に)陥るなら、こうあなたに言われるでしょう。「あなたはこんなにも苦しんだが、あさはかであった[13]」と。誰よりも、自分が真理のために多くの労苦を忍んだことを知っている人々は、何らかの罪が生じたときに、エルサレムに属している自分たちの数々の労苦を、バビロニアの王ネブカドネザルが奪うのではないか心配しなければなりません。しかしどのようにしてネブカドネザルが、罪を犯したエルサレムの諸々の労苦を奪うのかをあなたがもっとよく理解してくださるために、エゼキエルに書かれた言葉を合わせて使うことにしましょう。それはこうなっています。「義人が、その諸々の義から離れ、過失を犯すなら、私は彼が行なった諸々の義を決して思い起こさない[14]」。なぜでしょうか。苦労して行われた諸々の義を、ネブカドネザルが奪い、バビロニアの王ネブカドネザルがそれらを消してしまうからです。

神によって誉れの内に置かれた人間が[15]、「誉れの内にあったのに、それを知らず[16]」罪を犯したとき、ネブカドネザルは、エルサレムの「すべての誉れ」を取り去る。ですからもしもあなたが誉れの内にいることを知っており、誉れに呼ばれていたのに、諸々の罪によって再びみずからを辱めるなら、バビロニアの王は、エルサレムの誉れを取り去るのです。

「そしてユダの王のすべての宝を[17]」。エルサレムは豊かです。しかしもしもエルサレムが罪を犯すなら、バビロニアの王はその諸々の宝を取り上げるのです。

「そして彼らは、それらを略奪し、それらを取り、それらをバビロニアに持っていくだろう。そしてパスコル、お前と、お前の家に住むすべての者たちは、捕らえられてバビロニアに行く。そしてお前は、そこで死に、そこに葬られだろう[18]」。艱難に捕らえられている者は、バビロニアで死ぬのです。そしてキリストと共に「死ぬこと」を拒む者は、バビロニアに葬られるのです。「私たちは、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活した」という言葉にある通り、確かに、「洗礼によって」キリストと共に見事に葬られることは可能なのです[19]。キリストと共に葬られることが神秘であるのと同じように、罪人である者がバビロニアに葬られることは、無法に関係する神秘なのです。

「そしてお前たち、お前が偽りを預言したお前の友人たち[20]」は、そこに立ち去ると、(主は)言われております。神の諸々のみ言葉を偽って解釈し、諸々の預言の言葉を穴に投げ入れる人は、預言をするけれども、「偽り」を預言しているのです。もしも諸々の預言の言葉を解釈する人が、真実を語るなら、その人は預言をし、真実を語ります。しかし、もしもその人が偽りを語るなら、その人は、諸々の預言の言葉を偽って語る偽預言者なのです。



[1] Jr.20,3.

[2] Cf.De Or.27,13(GCS 3, 372,6); Philon, Leg.alleg.III, 25:O ga.r aivw.n apaj¸ twé| sh,meron parametreiétai.

[3] Jr.20,3-4.

[4] Jr.20,2.

[5] Jr.20,4.

[6] Cf.Ep.ad Julium Africanum,7; Com.Matth.XIV,13; XVII,23; Com.Matth.XIV,13; Hom.Jer.XX, 9,117; Com.Matth.XVIII,23; Hom.Ps.36,V,7,13; Hom.Lc 23,5-6; Com.Rom.7,12; Platon, Rep.615e.

[7] Jr.20,4.

[8] Cf.Ps.8,3.

[9] 1 Tm.1,20.

[10] Cf.1 Co.5,3-5.

[11] Jr.20,4-5.

[12] Jr.20,5.

[13] Ga.3,4.

[14] Cf.Ez.18,24.

[15] 洗礼を受けた人のことである。Cf.Hom.Jr. XIII, 2.

[16] Ps.48,13.

[17] Jr.20,5.

[18] Jr.20,5-6.

[19] Cf.Rm.6,4.

[20] Jr.20,6.

 

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