次に私たちは、「たとえお前が灰汁で(体を)洗い、自分のために草を積んでも、お前は私のまえで働いた数々の不正によって汚れている、と主は言われる[1]」という言葉を考察してみましょう。果たせるかな、罪を犯した魂は、(この言葉を聞いて)灰汁を取り、感覚的な灰汁で(体を)洗えば、「汚れを落とし、罪から清められる」と考えたでありましょうか。また、み言葉がここで、苦いブドウの木と変わり果て、異国のブドウの木となってしまったこのブドウの木に、「たとえお前が灰汁で(体を)洗い、自分のために草を積んでも、お前は私の前で働いた数々の不正によって汚れていると、主が言われる」と述べているのですから、地から生えるこの草を取り、(それで)洗い、そして拭えば、魂を浄化することができると考えた人がいるでありましょうか。ところが、み言葉はすべての力をもっているということを知っておかなければなりません。み言葉は、すべての書物を生み出す力を持っているのと同じように、医薬に備わるすべての力を持っているのです[2]。またみ言葉は、すべての洗浄物の力であり、しかもきわめて浄化力のある力であります。「実に、神のみ言葉は生き、そして働き、どんなもろ刃の剣よりも鋭いのです[3]」。あなたが必要だと言うものは(すべて)、このみ言葉の力のなかに含まれているのです。ですから「灰汁」のようなみ言葉があり、「草」のようなみ言葉が存在するのです。これらのみ言葉はいずれも、口に出すなら、いま述べた類の汚れを取り除くことができるのです。しかしこのような「灰汁」であるみ言葉によって、あるいはこのような「草」であるみ言葉によって、すべての罪が癒されるわけではありません。「灰汁」を必要としない罪があり、また、「草」を必要としない罪が存在するのです。それゆえ、「灰汁」と「草」によって罪が洗い清められたと思っている魂には、次のようなことが言われるのであります。「たとえお前が灰汁で(体を)洗い、自分のために草を積んでも、お前は私の前で働いた数々の不正によって汚れている、と主は言われる」と。諸々の傷のうちには、軟膏で治る傷があり、また、油で治る傷や、包帯を必要とし包帯をすれば治る傷もあります。しかしながら、「軟膏や油そして包帯の施しようもない。お前たちの地は荒れ果て、お前たちの町々は火で焼き払われる[4]」と言われる傷も存在します。同じように、(諸々の罪のなかにも)魂を汚す罪があり、人間はこのような罪に対して、「灰汁」としてのみ言葉や「草」としてのみ言葉を必要としますが、このようなやり方では癒されない罪も存在するのです。それは(ひどすぎて)、汚れと比較できるようなものではないのです[5]

ですから『イザヤ(の預言書)』において、諸々の罪の違いを知っておられる主が、どうして次のように言われるのかをお考えください。「主は、シオンの息子たちと娘たちの汚れを洗い、裁きの霊と焼灼の霊をもって彼らのなかから血を清める[6]」と言われています。汚れと血・・・。主は、裁きの<霊をもって>汚れを清め、焼灼の霊をもって血を洗うのです[7]。たとえあなたが、「死に至るような」罪を犯さなかったとしても、しかしそれでも(何らかの)罪を犯していたのなら、あなたは汚れているのです。ですから「主は、シオンの息子たちと娘たちの汚れを洗い、彼らのなかから血を清める」のです。そして、「汚れ」には「裁きの霊をもって」という言葉が対応し、<「血」には「焼灼の霊をもって」という言葉が対応しております>。実に、私たちがより重大な罪を犯してしまったとすれば、私たちの多くは、「灰汁」を必要としませんし、「草を積むこと」も必要とはしません。むしろ私たちは、「焼灼の霊」を必要とするのです。



[1] Jr.2,22.

[2] Cf.In Ex.X,27(Philocalie, XXVII, 4, Robinson, 245, 26):「神のみ言葉は、魂にとって医者である」。

[3] He.4,12.

[4] Is.1,6-7.

[5] オリゲネスは、いわば小罪と大罪の区別をしている。小罪は、魂を汚す「汚れ」であるが、これはみ言葉によって癒される。他方、大罪は、火によって清められる必要がある。

[6] Is.4,4.

[7] Cf.Hom.Lc. XIV, 3 : spiritu iudicii sordem, et spiritu combustionis sanguinem.

 

 

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