このようなわけでイエズスは   私はその理由をいまや見出したと思っているのですが・・・    、「聖霊と火[1]」によって洗礼をお授けになるのです。すなわちイエズスは、同一人物に「聖霊と火による」洗礼をお授けになるのではないのです。イエズスは、聖なる人には「聖霊による」洗礼をお授けになります。しかし信じた後で、聖霊にふさわしい者とされた後で、再び罪を犯してしまった人に対しては、イエズスは「火による」洗礼をお授けになります。ですから同じ人が、イエズスによって「聖霊と火による」洗礼を授けられるのではありません[2]

「聖霊によって」洗礼を受け、火による洗礼を必要としない者は幸い。そして火による洗礼を必要とする人は、まことに不幸であります[3]。しかしながらイエズスは、この二つの洗礼を持っているのです。実際、「エッサイの根から杖が出て、その根から花が萌え出でるだろう[4]」とあります。「杖」は、懲らしめられる人たちに向かい、<「花」は、正しい人たちに向かうものです>[5]。これと同じように、「神は(すべてを)焼き尽くす火[6]」であり、「神は光[7]」です。「(すべてを)焼き尽くす火」は罪人たちに向かい、「光」は正しく聖なる人々に向かうのです[8]

次に「第一の復活に与る者は、幸い[9]」とあります。その人は、聖霊による洗礼を守ったのです。では、第二の復活によって救われるのは誰でしょうか。それは、火による洗礼を必要としている人です。彼があの(焼き尽くす)火の方へ進むと、火は彼を吟味します[10]。そしてあの(焼き尽くす)火は、「木や草、そして麦わら[11]」を見つけ出し、それらを焼き尽くすことでありましょう[12]

以上いろいろな話をして参りましたが、このようなわけですから、私たちは聖書のなかからできるかぎり言葉を集めて、それらの言葉を心のなかに蓄えましょう。そしてそれらの言葉に従って生活するようにいたしましょう。願わくは私たちが、(この世からの)脱出の前に清い者となり、また、(この世からの)脱出を目指して私たちの業を整えながら、脱出した暁には、聖人たちの仲間に加えられ、キリスト・イエスにおいて救われますように。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン。



[1] Lc.3,16.

[2] Hom.Lc.XXIV, 1.

[3] trisa,qlioj: 文字通りには、「三重の不幸」という意味。

[4] Is.11,1.

[5] Cf. Com.Jn. I, 36 (41) §263; Hom.Is. III, 1 (PG 13, 228 CD); Sel.Ez. VII, 10 (ibid., 791 AB).

[6] He.12,29.

[7] 1 Jn.1,15.

[8] Cf.Com.Jn.XIII, 23 (23) §139; Com.Mt.XVII, 19 (PG 13, 1537 A).

[9] Ap.20,6;cf.In Lc.fragment 83 fin (SC 87, p.340): 「義人たちの復活は、ヨハネの黙示録の中で、第一の復活と呼ばれています(Ap.20,5)」。.

[10] 1 Co.3,13.

[11] 2 Co.3,12.

[12] (水と)霊による洗礼」と「火による洗礼」の区別は、救いに関するオリゲネスの形而上学的な仮説を前提にしている。彼によれば、第一の洗礼を受けた後、重大な罪を犯さなかった者は、この代の終わりに至福の領域に「戻る」(第一の復活)。しかし第一の洗礼を受けたものの、重大な罪を犯してこれを守らなかった者は、死後も別の世々で引き続き第二の洗礼という罰を受け、その後初めて至福の領域に「戻る」(第二の復活)Cf.Hom.Jr.XVI, 6; XX, 3; Hom.Lv.XV, 3 sub fine; De Princ.II, 10, 4 (GCS 22, p.177, 10); Com.Jn.XIII, 23,§138; C.Cels IV, 13; V, 15(SC 147, p.51.

 

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