以上が、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」という言葉について、あの人が私たちに伝えてくれたものです。私としては、与えてくれる人々から受け取ったものをそのままにしたり、私に語ってくれた人々のタラントを地面に隠したり[1]、何か有益なことを教えてくれた人々の一ムナをふくさに包んでしまわないように願っています[2]。むしろ私は、有益なことを伝えてくれた、あるいは伝えることのできる人から受け取った知識を豊かに増し増やすことを願っています。私は、福音のであれ使徒のであれ、預言者のであれ律法のであれ、それらの一ムナを幾倍にでも増やそうと願っています。そこで私は、それらの説明を聞きながら、「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」ということについて、私なりに考えてみました。そして私は考えながら、この個所について、何らかの真実を発見することを願っています。おそらく(目下の問題は)、まだ幼い子どもを抱えた父親が、子どもの利益を考えてだまそうとするのと同じことでしょう。なぜなら子どもをだますのでなければ、子どもに益はないからです。あるいは患者が欺きの言葉を受けなければ癒されないことを考えて、医者が患者をだまそうと努力しているのと同じことでしょう。つまり万物の神は、おそらくこれと同じように振舞うと思うのです。なぜなら神の意図は、人類を益することだからです。医者が患者に次のように言ったとしましょう。あなたを切らなければならない。あなたを焼かなければならない。それどころかもっと痛い処置を受けなければならない。おそらくその患者は、同意しないでしょう。しかし医者は、時として別のことを語り、刃物や刀を海綿の下に隠すことでしょう。更には、こう言ってよければ、苦い物や不快な薬を蜜の下に隠すでしょう。しかし医者は、患者に害を与えようとしているのではなく、治療しようとしているのです[3]。聖書全体は、このような薬に満ちています。そしてよいものが隠されてもいれば、苦いものが隠されてもいます。もしもあなたが、父親が息子を憎んでいるかのように脅かし、息子に恐ろしいことを言って、優しさを示さず、息子に対する愛情を隠すのを見れば、父親は幼児を欺こうとしているのに、お気づきになるでしょう。息子にとっては、父親の愛情や好意を知ることは益がないのです。(そうでなければ)息子は、だらしなくなり、教育を受けなくなるのです。それで父親は、好意の甘さを隠し、脅かしの苦さを示すのです。

神も、父親や医者との類比から、これと同じようなことを行っています。神は、もっとも正しい人も、もっとも賢い人も何かしら苦いもので癒します。なぜなら罪を犯した人はみな、その罪のゆえに懲らしめを受けねばならないからです。「あなた方は欺いてはならない。神は嘲られない[4]」のです。「姦通者も、誘惑者も、女々しい人も、男色家も、泥棒も、大酒飲みも、中傷家も、強盗も、神の国を継ぐことはできない[5]」とあります。もしもこの言葉が、海面に隠された医者の刃物を理解することのできない人や、蜂蜜に隠された苦い薬を理解できない人たちによって理解され厳密に検討されるなら、気落ちする人もいもいるでしょう。実際、私たちの内の誰が、無分別に(酒を)飲んで酔いしれた覚えがないと言えるでしょうか。私たちの内の誰が、万引きや生活必需品を着服したことがないと言えるでしょうか。み言葉が何を言っているかご覧下さい。「あなた方は、思い違いをしてはいけません。彼らが神の国を継ぐことはないでしょう[6]」。この個所の神秘は隠されなければなりません。それは、多くの人が気落ちしないためですし、真相を知って、安息としての死を迎えるのではなく、罰としての死を迎えることのないようにするためです。一体誰が、パウロと同じように、「行って、キリストと共にいる方がよい[7]」と言えるでしょうか。私にはそんなことは言えません。なぜなら私は、この世を離れた場合、私の中にある様々な木が燃やされなければならないのを知っているからです。私には、罵りの木があります。私には飲酒の木、万引きの木があります。そしてその他数え切れないくらいの多くの木を、私は、自分の家に積み上げています[8]。あなたは、信者の多くの人たちがこれらすべてのことを免れるとお考えですし、無事に免れるとお思いです。そして私たち一人ひとりは、偶像崇拝をしたこともなく、姦淫を犯したこともありませんから――そして私たちはこの点で潔白であればよいのですが―――この生活を離れたとき、救われると考えています。(しかし)私たちは、次の言葉を考慮していません。「私たちはみな、キリストのみ座の前に立たされねばなりません。それは、善いことであれ悪いことであれ、一人ひとりが身体を通して行ったことの報いを受けるためです[9]」と。(そして)私たちは、次のように言われた方を考慮に入れていないのです。「しかし私は、地のすべての部族の中からお前たちを知った。それゆえ私は、お前たちの行ったすべての業のゆえにお前たちを罰する[10]」と。これは、あれこれの特定の人に対してではありません。

ですから、医者は時として治療用の刃物を柔らかく繊細な海面の下に隠します、そして脅迫を露わにすることによって愛情を隠します。前者の欺きは、腫瘍や静脈瘤、そのた身体の状態を損なうものを取り除きます。後者の欺きは、無規律や優柔不断を取り除きます。それで預言者は、神がこれと同じようなことをなさると神秘的な仕方で理解しました。そして善き目的のために神によって欺かれたことを悟って、こう言ったのです。「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と。そして「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と言う預言者に臨んだ欺きは、彼を非常に大きな預言の恵みへと導き、この欺きを祈り求め、神に「私を欺いてください、もしもそれが有益ならば」と言わしめたのです。方や神に由来する欺きがあり、方や蛇に由来する欺きがあります。女が神に何を言っているかご覧下さい。「蛇が私を欺いたのです。そして私は食べました[11]」。その上、蛇に由来する欺きは、アダムとその妻を神の楽園から連れ出しました。これに対して「主よ、あなたは私を欺きました。そして私は欺かれました」と言った預言者に臨んだ欺きは、預言者を非常に大きな預言の恵みへと導き、彼の内で力が増し、彼が完成の域に達して、人間を恐れることなく神のみ言葉にみ旨に仕えることができるようになるのです。

とにかく私たちも、このようなことを理解して、現在も<将来も>、神によって欺かれることを願いましょう。そしてただ蛇だけは、私たちを欺くことがあってはなりません。他の個所にもこれと似通ったことが書かれています。『イザヤ書』の中で次のように言われているのです。「実に主は、迷いの霊を彼らに混ぜられた[12]」と。あなたはここでも、神によって混ぜられた迷いの霊が何をするかお分かりでしょう。神が混じり気のない迷いの霊をお与えにならなかったことは幸いです。預言者が言っているように、神が迷いの霊に混ぜ物を入れたのはよいことです。



[1] Mt.25,25.

[2] Lc.19,20.

[3] Cf. C.Celse,IV,19; Platon, Rep.III,389b; Philon, De cherub. ss5; Clemens Alex., Strom.VII,ix,53,2.

[4] Ga.6,7.

[5] Cf. 1 Co.6,9-10.

[6] Cf.Ga.6,7 + 1 Co.6,10.

[7] Ph.1,23.

[8] Cf. 1 Co.3,12.

[9] 2 Co.5,10.

[10] Am.3,2.

[11] Gn.3,13.

[12] Is.19,14.

 

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