「あなたは強く、力がありました」。これに続いて次のように言われています。「私は笑いものになりました。私はひねもす嘲られました[1]」。この個所についても、私は次のようなことを聞いています。すなわちエレミアは、最も罪深い人たちの時代にいました――彼の時代は、捕囚の時代だったのです――。そして罪人たちは、預言者が「主はこう言われる」という預言の序言を言おうものなら、嘲り、笑い、嘲笑する状態にありました。<そこで>聞き手の人たちは、語られたことを笑い嘲ったので、欺かれ、また欺かれることによって利益を得た預言者は、「主がこう言われる」という言葉を使うのを避けました。それ故、預言者も、欺くことによって利益を得るために(聞き手を)欺こうと望み、あなた方に私の言葉を語る、なぜならあなた方は主の言葉を聞かないからだと言いました。そのときこれらの人々は、エレミアの言葉に耳を傾け、神の言葉を聞いたのです。これらのことは、この個所についての伝承を伝えたくれた人が、預言の序言や元を検討しながら、私に教えてくれたことです。ですからどういうわけだか私はわかりませんが、七十人たちが伝えているように、「司祭の一人ヒルキヤの子エレミアに臨んだ神の言葉[2]」という預言の元があると共に、ヘブライ語やその他の伝承では、「ヒルキヤの息子エレミアの言葉」となっていて、それらはみな、「ヒルキヤの息子エレミアの言葉」と言っている点で一致しているのです。なぜ「エレミアの言葉」なのでしょうか。それは、エレミアの序言が、話を聞きたくない人々に対して「あなた方は私の言葉を聞きなさい」と言うことにあったからです。

また私たちも、有益であると私たちに思われるときには、同じようなことをするときがあります。時として私たちが、異邦人出身(の人たちに)見言葉を伝え、彼らを信仰に導こうとするとき、彼らがキリスト教に関して中傷を受け、み名を恐れ、このみ言葉がキリスト者たちのみ言葉であることを聞きたくないと見受けられる場合には、私たちは、キリスト者たちの有益な見言葉を語らないような振りをします。しかしこのみ言葉が私たちの力に応じて備えられ、聞き手が語られたことを気まぐれに聞かなくなり、私たちが彼らの心をつかもうとしたとき、このすばらしい教えがキリスト者たちの教えであったと告白します。私たちも、もはや「主はこう言われる」とは言わずに、あなた方は私エレミアの言葉を聞きなさいと言った預言者と何かしら同じようなことを行うでしょう。

以上は、「私は笑いものになりました」という言葉について述べてみたものです。そして私たちも、(キリストの)話をして笑われるなら、不愉快な思いをします。そしてこれまで述べてきたエレミアがこう言うのです。「私は笑いものになりました。私はひねもす嘲られました[3]」と。なぜ、私はエレミアを出すのでしょう。私のイエスも嘲られていたからです。実際、「金銭欲の強いファリサイ派の人たちは、これらのことをすべて聞いて、彼を嘲った[4]」と言われています。「主は」、神のみ言葉を嘲るすべての人を「嘲るのです[5]」。

「私は笑いものにされました」。あなたは、預言者たちがどのような生活をしたかをご覧下さい。彼らはあるときは嘲られ、あるときは危険にさらされ、投げ倒され、また民に石を投げつけられ、殺され、憎まれ、迫害され、すべてを忍び、耐えました。それは、神のみ旨に従って、「ただ一人生きておられる方の栄光[6]」のために、み言葉を宣べ伝え、神に由来する目的を達したのです。

「私はひねもす、嘲られました」。これは、当時の世代の人々に対する非難です。なぜなら預言者は、嘲られながら幾日かの日を送ったのではなく、終日、嘲られていたからです。



[1] Jr.20,7.

[2] Jr.1,1.

[3] Jr.20,7.

[4] Lc.16,14.

[5] Ps.2,4.

[6] Cf.Jn.5,44.

 

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