「なぜなら私は、私の辛らつな言葉のゆえに笑うでしょう[1]」とあります。笑いの約束が存在します。太祖イサクは、約束を表しています。なぜならイサクという名は、笑いと解釈されるからです。ところで笑いの約束があることは、「いま泣いている人たちは幸いである」という言葉から明らかです。その約束は、「彼らが笑うこと」です[2]。そして「彼らは神の子と呼ばれる[3]」という約束や、「彼らは神を見るであろう[4]」という約束、「彼らは地を受け継ぐだろう[5]」という約束、また「諸々の天の国は、彼らのものである[6]」という約束があるように、幸いなものとされた笑いの約束とは正反対の笑いの約束があるのです。おそらくあなたは、幸いなものとされた嘆き悲しみが、あれこれの観点では、この善き笑いに対応するのか、これらに縁のない人たちにとって置かれた不幸な嘆き悲しみは、この善き笑いと正反対のものなのかお考えになることでしょう。実際、「禍なるから、いま笑っている人たちは。彼らは、嘆き悲しむだろう[7]」と言われています。幸いなものとされた嘆き悲しみと、悪い生活を強いる人たちにとって置かれた嘆き悲しみとは、別のものなのです。ところで、この後者の嘆き悲しみは、何か有益な目的を持っているのでしょうか。私にはわかりません。何を言っているのでしょう。パウロの言葉をお聞きください。パウロは、教えるとき、聞き手の人たちを悲しませるように腐心しています。そして、自分の話によって誰かが悲しむとき特に喜んだとその内心を吐露しています。彼は、こう言っております。「私によって悲しんだ人以外、誰が私を喜ばせるのでしょうか[8]」と。もしも、聞き手、特に罪を犯して聞き手の魂を動かすことができる人がいれば、その人は、全力を尽くし、理路整然と、神性で健全な考えで、言葉を話そうと願い、聞き手の魂を揺り動かし、悲痛と嘆き悲しみ、そして涙へと聴衆を導き、聴衆が言われた言葉に満足し、喜ぶのをみて自分も喜ぶでしょう。実際、彼は、ある時には、悲しませることによって「生命へと到る細くて狭い道[9]」への約束に導き、幸いなものとされた笑いに嘆き悲しみを通して導きます。しかし、ある時はこれを成し遂げることができず、彼は、おそらくこんなことを言ったのではないかと、私は思っています。「禍かな、いま笑っている人たちは。彼らは、嘆き悲しむだろう[10]」と。

何のために私は、以上のことを話したのでしょうか。それは、(預言者が)「なぜなら私は、私の辛らつな言葉のゆえに笑うでしょう[11]」と言ったことを理解したいからであり、嘆き悲しみの笑い、つまりこの世で笑っている人たちが悲しむであろうあの嘆き悲しみを明らかにしたいからです。おそらくこの嘆き悲しみは、神がこういった人たちの中に生まれさせようと取り計らっているものです。なぜなら、「そこには、嘆き悲しみと歯ぎしりがあるであろう[12]」とあるからです。そして神がこのことを取り計らうのも、自分自身の諸々の罪に嘆き悲しみ、自分の諸々の不法のゆえに悲嘆に暮れる人が、すでに自分自身の数々の悪行の自覚に達していると見ているからです。どうか私たちの一人ひとりが、罪の一つひとつについて「私は夜毎、(涙で)私の床をぬらし、私の涙で私の寝台を湿らせるでしょう[13]」と言うことができますように。どうか私たちの一人ひとりが、各自の罪について嘆き、「涙が、日夜、私のパンとなった[14]」と言うことができますように。もしも私の言葉が、ここで、より辛らつなものであれば、しかも私のこの言葉のゆえに虐げられるほど辛らつなものであれば、聞き手の人たちは不愉快に思うでしょう。非難を受ける人たちが、避難する人を打ち倒すとすれば、私は、辛らつな言葉のゆえに、私の終局が笑うことであること、それも幸いなものとされた人たちの笑いを笑うことであることを知っています。そしておそらく預言者もこのことを知っていて、こう言ったのでしょう。「私は、私の辛らつな言葉のゆえに笑うでしょう[15]」と。すでに「辛らつな言葉」はありますが、まだ私は笑っていません。しかし「私の辛らつな言葉のゆえに、私は笑うことになるのです」。



[1] Jr.20,8.

[2] Lc.6,21.

[3] Mt.5,9.

[4] Mt.5,8.

[5] Mt.5,5.

[6] Mt.5,3.

[7] Lc.6,25.

[8] 2 Co.2,2.

[9] Cf.Mt.7,14.

[10] Lc.6,25.

[11] Jr.20,8.

[12] Mt.8.12.

[13] Ps.6,7.

[14] Ps.41,4.

[15] Jr.20,8.

 

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